No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

その女性は横浜を舞台に登場し、多くの謎を残した女傑です。
彼女の名は「斎藤 たけ」1837年(天保7年)江戸に生まれ、1910年(明治43年)9月11日の今日、横浜で73歳の生涯を終えました。彼女の墓は横浜市西区赤門町にある高野山真言宗「東福寺」にあります。
書きたいことが多くここでは何に絞ろうか?迷いました。

長谷川伸家の墓もここにあります

”斎藤 たけ“東京をも圧倒した横浜の待合「富貴楼のお倉」といったほうが判る方が多いかもしれません。
彼女の評は“坂本龍馬のような女”、“伊藤、井上、大隈、山県等の大官を手玉にとった女”、“女政商”いろいろです。
お倉像は、伝聞・傍証ばかりで“なぞ”の部分が多いのです。ここが波瀾万丈の人物像を生み出している理由かもしれません。
超簡単にまとめると
「苦労して全国各地を転々としますが実業家(田中平八)と政治家(伊藤博文)との出会いで横浜に関東有数の待合「富貴楼」を作り、そこの女将として明治初期の政治家・実業家の密会舞台を仕切った」ことで成功した“実業家”ということでしょうか。
この時代 明治初期の同時代人のキーマンは殆どが『利用」したといっても過言ではないでしょう。
(富貴楼に関係する人物)
文中に名前が出てくるだけでも
大久保利通、岩倉具視、田中平八、三条実美、陸奥宗光、伊藤博文、高島嘉右衛門、井上馨、大隈重信、山県有朋、松方正義、小泉 信三、高橋誠一郎 らがお倉人脈です。

参考資料

中区役所 昭和51年「横浜のおんなたち」(PDF)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/document/1977-01.pdf
鳥居民の「富貴楼 お倉」(草思社)
ハマの風富貴楼お倉物語
Wiki 他ネット評論等
微妙に資料の史実が異なっています。
例えば彼女が生まれた場所に関しては、江戸谷中茶屋町と浅草松葉町の2説あります。個人的には谷中茶屋町だったら雰囲気あるな!と思いますが江戸と現代では環境も激変しているでしょう。

※谷中茶屋町は十軒程度しかない極めて狭い場所です。谷中墓地のすぐ近くにある職人の多く暮らしていた町だったようです。

左側が茶屋町で、右側が霊園です。

浅草松葉町あたりは現在の合羽橋あたりです。

Wikipediaではシンプルです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/富貴楼お倉

富貴楼お倉(ふうきろうおくら 1837年(天保7年)12月24日-1910年(明治43年)9月11日)は、明治の実業家。本名は斎藤たけ。
江戸に生まれ、芸者や遊女などを経たあと、明治4年に横浜の相場で財産を築いた田中平八から資金を得て、現在の横浜市中区尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。
この料亭には田中平八をはじめ、井上馨、陸奥宗光、伊藤博文らの重鎮が出入りしたことから、明治初期の政治の駆け引きの舞台となったと言われる。

とだけあります。もう少しわくわく感で説明しているのが、松岡正剛さんの鳥居民の「富貴楼 お倉」評のコーナーです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0323.html

ここでは
ちょっとひねくれて考えてみました。
【富貴楼はどこに?】
新橋芸者をビビらせたという富貴楼の場所はどこか?
鳥居民さんの「富貴楼 お倉」(草思社)では、裏表紙に「富貴楼」のあった場所をマップで示しています。
本文では
尾上町5丁目あたりとしています。

裏表紙の富貴楼マップ

中区役所 昭和51年「横浜のおんなたち」でも
『明治六年相生町から発した大火で富貴棲も類焼して尾上町に移転。二〇〇余坪の敷地に豪壮な旅館兼料亭を新設し(今の神奈川県中小企業会館のあたり)、伊藤博文揮毫の「富貴楼」 の看板をかかげて再出発した』
とあります。

素直に神奈川県中小企業会館のあたりかと思ったのですが、待てよ?ここは尾上町ではなく「湊町(現在 港町)」ではないか?
そこで、明治の地図にあたってみました。

富貴楼のあった場所は、神奈川県中小企業会館ではなく通りを挟んで反対側 泉平の一角ではないか? 明治24年の絵地図でもなんとなく200坪余700平米あるって感じですよね。

簡単に判る資料があるのに どうして?湊町方向になったのでしょうか?もう一つ「富貴楼 お倉」(草思社)では、船で富貴楼に入ったという記述があるので(出典不明)、これに引きずられたのかもしれません。

※富貴楼の近くに「六道の辻」がありここがまた歴史ドラマの舞台なんですね!!!

まだまだ謎解きは沢山ありますが 今日はこの辺で。
★これらの資料には、明治の怪商「高島嘉右衛門」がほとんど登場しませんが、高島も料亭「高島屋(デパートとは全く関係ありません)」を幕末明治初期に尾上町に作り“料亭政治”に使いました。二人は知合いですが、つながる傍証が見当たりません。どこかで判ってくると面白くなると思います。

(番外編)
”斎藤 たけ“さんにはどうしようもなくだらしない旦那(夫)がいたのですが、二人には子供が無く 養女を迎えます。その養女のために桜木町駅(旧横浜駅)二階に食堂「川村屋 」を開設します。一時期は二代目横浜駅などに出店し有名になりますが、関東大震災、戦災等で店じまいし、現在は桜木町駅構内の「立食い蕎麦 川村屋」として営業を続けています?? 店内に張ってある説明には「斎藤 くら」とありますが、判りにくいからこう表現したのでしょうか?正確には「斎藤くら」ではないですね。 (おじさんのいちゃもんでした)

でも 2008年位から美味しくなりましたね。以前神奈川立食い蕎麦ワースト10に入っていた時代がありますから。

時にうるさいくらいの元気なおばちゃん達が仕切っています

1件のコメント

  1. 大変興味深く読ませていただきました。

    突拍子もない想像ですが、富貴楼=高島屋旅館の可能性はありませんか?

    高島屋旅館は現馬車道拾番館の場所にあったとの記述が一般的ですが、明治24年の地図の広大な敷地が富貴楼だとすれば、1869年に開かれた高島屋旅館が71年に富貴楼となってリニューアル・オープンしたという仮説も成り立つのかなと妄想しています。

    嘉右衛門の妻の名前も倉と言う点も気にかかります。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください