No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?

田口卯吉という人物をご存知ですか?
明治の言論人です。
1875年(明治8年)9月6日の今日、
田口卯吉、20歳の時「横浜毎日新聞」に「讒謗律(ざんぼうりつ)の疑ひ」(筆名を田口十内として)を投稿した日です。
逮捕者も出た当時の大蔵官僚在職中の事件でした。
現在ではごく普通な新聞メディアを使った考え方の発表、この時代はかなりセンセーショナルであったようです。
でも、今より“自由な”時代だったかもしれません。

明治人物評論より
田口卯吉(たぐち うきち)
1855年6月12日(安政2年4月29日)〜1905年(明治38年)4月13日没
幕末の江戸目白台に生まれた俊才であり努力家でした。

田口卯吉の略歴はここでは省略しますが苦労して学び、その才を活かし大蔵省に務め銀行担当になります。
現在で言う財務官僚の中でもエリート中のエリートになります。
(かつて大蔵官僚「四階組」なんて言われた時期も)
http://ja.wikipedia.org/wiki/田口卯吉
を参照してください。

彼は「日本のアダム・スミス」といわれた経済学者としても高い評価を得ていますが、
自著である『日本開化小史』は
福沢諭吉の「西欧事情」と並ぶ当時の文明論としてベストセラーになりました。
この『日本開化小史』は、田口が睦奥宗光の支援でようやく出版にこぎつけた「自由交易日本経済論」の出版資金つくりのために5年かけて発表したものをまとめたものです。


田口は経済論だけでなく「鉄道論」「貿易論」「法律論」など多岐に渡り論陣を張っていきます。
彼の特徴はメディア(新聞)を使って持論を展開していった点にあります。
現役時代から「横浜毎日新聞」を舞台にした彼の投書(政府批判)は以後大蔵官僚を辞職する直前の1878年(明治11年)まで続けられます。
大蔵省在職中の投稿で最も話題になったのが「国策第一」「国策第二」で当時の金融政策を批判し、新しい銀行組織の設立を主張します。

日銀のアーカイブ「初期の中央銀行設立構想」(PDF)に詳しい
http://www.boj.or.jp/about/outline/history/hyakunen/data/hyaku1_1_2.pdf

冒頭の初めて投稿した「讒謗律(ざんぼうりつ)の疑ひ」は、(匿名で)国の法律を批判したもので発表後の10月20日に「横浜毎日新聞」編集長だった塚原渋柿園(27歳)が新聞紙条例(1875年明治8年6月発布)違反となり罰金百円、禁獄十カ月に処せられることになります。
(摘発第一号?じゃないかというくらい施行後すぐに、それにしても当時の人たちは早熟でかつタフですね)

※讒謗律(ざんぼうりつ)とは、明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた法律。自由民権抑え込み悪法の一つ。
※新聞紙条例も言論統制の明治の悪法の一つです。

田口卯吉は当時の言論人の中で、経済学の視点から時の政府を徹底批判した人物です。明治時代と言えば「富国強兵」「殖産興業」と教科書に書かれていますが、この「殖産興業」批判を展開した人物です。
当時の政府・三菱批判の急先鋒でした。
その舞台としてメディア展開のキッカケが「横浜毎日新聞」です。

日本最初の日本語の日刊新聞です。
創刊のきっかけは当時の県知事だった井関盛艮が近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説き地元経済人によって創刊します。
この「横浜毎日新聞」(記者)から後の政治家島田三郎が、文学の世界には仮名垣魯文を輩出します。
一時期編集長になった(田口卯吉の原稿で捕まった)塚原 渋柿園仮名垣魯文に影響を受け小説家となります。

(東京開港)
明治時代は横浜港が経済の中心でしたが、
田口卯吉は経済の視点から「東京開港論」を展開します。
当時は横浜経済中心に日本経済が回っていたこともあり、主論になりませんが、彼の主張が次第に時代の変化とともに東京開港へ傾いていきます。
そして「関東大震災」をキッカケに 横浜は復興から取り残され完全に日本の軸が「東京」に移り始めるのです。

東京と横浜の都市間競争、江戸のあだ花として開化した横浜が明治末期あたりから「東京」と競争を始めます。東京・横浜都市間競争、これが私の2014年のテーマです。

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