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No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

元米国18代大統領ユリシーズ・グラント一行は、
1879年(明治12年)9月3日(水)の今日、
横浜港からPacific Mail Steamship Companyの蒸気船「City of Tokyo」号に乗り母国に向け出港しました。
2年と4ヶ月の長い旅の中で、グラントの日本滞在は
若き日本の指導者にとって
“まことに小さな国が開化期を迎える”力となった出会いでした。

元米国18代大統領ユリシーズ・グラント(1822年4月27日〜1885年7月23日)は、歴代米国大統領の中では周囲の汚職スキャンダルに悩まされ低評価でしたが
軍人として南北戦争を戦い最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官(将軍)として後世に名を残します。
グラントは二期大統領を務めた後、三選を諦め世界一周の旅に出ます。
イギリスを皮切りにヨーロッパ諸国を歴訪、さらにエジプト、インド、シンガポール、タイ、清を経て最後の訪問地が日本でした。

簡単にグラント将軍の日本での行動を紹介します。
1879年(明治12年)6月長崎到着。
 日本側から伊達 宗城伯爵が出迎え、接遇担当としてグラントの信頼を得ていた駐米公使 吉田 清成を米国から呼び戻しました。
 当時、5代目にあたる駐日公使ジョン・ビンガムも彼の到着を待ちわびていました。
ビンガムはかつてアメリカ議会で共に共和党議員として活躍した仲間でした。
6日間の歓迎行事を終え、次の寄港地は神戸を予定していましたが関西圏で発生した「虎列刺」(コレラ)が大流行の兆しを見せます。
ビンガムは神戸寄港を中止させますが、接遇担当の吉田 清成がサプライズメニューを用意します。
長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)
静岡で楽しんだグラント一行は、7月3日に横浜港に到着し大歓迎を受けます。
出迎えた日本側の要人は、岩倉具視、伊藤博文、寺島宗則ら当時の政府側最高幹部達でした。
横浜に到着した彼らは汽車で移動し新橋に向かいます。
新橋駅では、岩倉遣米使節団の一員だった福地源一郎が歓迎の辞を伝えます。
翌日の7月4日、御所での天皇謁見が用意され、訓練された儀仗兵がアメリカ合衆国の初代国歌である「コロンビアをよぶ」で出迎えました。
Hail Columbia
http://www.youtube.com/watch?v=WoSsjfHHhKs
http://www.youtube.com/watch?v=FyIqvZSuptk

1879年(明治12年)7月4日は、103年目のアメリカ独立記念日にあたり、若き明治天皇は
「今日ハ貴国独立ノ期日ニ当リ候ヨシ此日ニ於テ初面会ヲ遂げ右ノ歓ヲ申候ハ別テ目出度事ニ存候」と述べます。
謁見後、夜には上野精養軒で東京在住のアメリカ人による歓迎レセプション

8日には東京府民主催の歓迎夜会(工部大学校)16日 新富座で観劇会8月1日 横浜居留地外国人主催夜会(山手公園)5日 渋沢栄一主催の晩餐会(飛鳥山)25日 上野公園に明治天皇臨席のもと歓迎会26日 横浜駐在アメリカ総領事主催夜会(渋沢栄一資料から)

渋沢関連の民間財界側の歓迎プログラムだけでもこれだけ行われました。
政府公式行事も続きます。
日光では、精力的に日本政府代表と琉球の領有をめぐる日清間の対立問題ほか国際情勢について意見を交わします。

特に明治天皇のグラントへの信頼関係は強く、8月10日の天皇・グラント会談は
後の日本の方向を占う重要なアドバイスでした。
老獪な英国”と共に南北戦争を戦ったグラント将軍、
英国嫌いの駐日公使ヒンガムの正義感、
なんとか南北分裂を避けることができたアメリカのピュアな時代に、
日本のキーマン達は出会ったのです。
(後編に続く)

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