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No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

1929年(昭和4年)8月19日午後5時を少し回った頃、
飛行船ツェッペリン伯爵号(グラーフ・ツェッペリンLZ-127号)が
世界一周の途上、横浜市街を回遊し着陸地の霞ヶ浦に向かいました。
この横浜飛来は、ツェッペリン伯爵号が事前に提出していた帝都訪問飛行計画には含まれていない突然のルート変更でした。
今日はその謎解きを大胆に素人仮説で解いてみたいと思います。
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横浜上空のツェッペリン伯爵号

(LZ-127号)
飛行船『ツェッペリン伯号(はくごう)』はドイツのツェッペリン社によって開発された当時最先端技術を集めた大型旅客硬式飛行船の船名です。
飛行船による大航海の時代は、1900年に始まり
このツェッペリン伯爵号の世界一周でピークに達します。
1937年(昭和12年)のレークハーストで起きた世界最大飛行船ヒンデンブルク号の爆発炎上事故で死者36人を出す事によって終りを告げます。緊迫した大戦前夜の悲劇ともいえる事故でしたが、1920年代から1930年代にかけてアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連でも盛んに製造されました。
一般的に飛行船をツェッペリンと称することが多かったようですが
ツェッペリン社製の飛行船はLZ-126号とLZ-127号、LZ130号に代表される数隻に過ぎません。
あまりにツェッペリンのインパクトが強かったため当時の一般名詞となったそうです。

(飛行船の時代)
日本にツェッペリンが飛来した1929年(昭和4年)8月は米国に始まるウォール街の大暴落直前の好景気に酔っていた時代です。
一次大戦で債務国から債権国となり覇権国家に躍り出たアメリカ。
逆に敗戦国の債務に苦しみファシズムが台頭するドイツ。
未知の共産政権ソビエトの登場。
そして日本は 関東大震災の復興に苦しんでいました。
中でも横浜は東京に集中した首都復興政策に取り残されそうになっていた時でした。

(ツェッペリン伯爵の夢)
飛行船は、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が生涯をかけて開発した硬式飛行船の一種で、世界の飛行船製造のスタンダードモデルとなりました。このツェッペリンモデルを実業化したのが「グラーフ・ツェッペリン」で、建造資金はドイツ国内の義援金やドイツ政府の資金拠出金によって集められました。
そして、LZ-127号を使った世界一周のメインスポンサーがWilliam Randolph Hearst、新聞王となりイエロー・ジャーナリズムで帝国を築いた人物です。
不景気に悩むドイツの技術力をアメリカが買ったのです。
正確には、アメリカのハースト新聞社が必要経費の約半分、残りをドイツ、フランス、日本など世界の新聞社が資金提供したメディア船でした。
定員20名の乗客の中には各国政府代表、富豪、メディア関係者、そして2名の日本人記者と軍人(日本政府代表)の3名が乗り込み、ハースト新聞社からはカメラマンと
紅一点のグレース・ドラモンド・ヘイ女史が乗り込みました。


(飛行ルート)
■出発地はツェッペリン社のある南ドイツのフリードリッヒスハーフェン(Friedrichshafen)から一度ニュージャージー州レイクハーストまで飛行し世界一周の出発地とします。(レイクハーストを発着点にすることが資金提供条件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒスハーフェン
ソビエト上空を横断し、シベリアから樺太に入り、日本へ。
霞ヶ浦に着陸(唯一の中継地点)し、アラスカ経由でロサンゼルス、東海岸のハースト湖まで飛行しました。
おおよそのルート
 

※ちなみに茨城県土浦市とフリードリヒスハーフェンは姉妹都市です。

(日本国内ルート)
1929年(昭和4年)8月19日の早朝、
北海道寿都町(すっつちょう)上空から日本列島を南下、着陸地霞ヶ浦を確認し、東京の千住から隅田川、東京港上空を経て品川から山手線に沿って渋谷、新宿、池袋を通って再び千住へと皇居外周部を回り、霞ヶ浦に着陸する予定でした。
ツェッペリン伯爵号の飛行ルートとしては、破格のサービスのようにも思えます。
他の国々はさらーっと通過しているにも関わらず、ツェッペリン伯爵号は、北海道から横浜まで、じっくりその容姿を日本国民に見せつけます。
『君はツェッペリンを見たか』が合い言葉になったそうです。
ツェッペリン伯爵号は乗員65名(乗客20数名を含む)で、全長236.6m、最大直径30mの空に浮かぶ巨体です。
池袋のサンシャイン60の高さが地上239.7mですからその大きさのすごさを簡単に想像できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/サンシャイン60
着陸地、霞ヶ浦には東京から臨時便の列車も出て当時30万人もの人出でした。

(進路変更)
実際にツェッペリン伯爵号は隅田川上空から急に予定進路を変えます。
清州橋から機首を都心(皇居方向)に向け東京駅、皇居の一部をかすめ(国会でもめますが、関係国との配慮で不問)品川から多摩川河口を越え神奈川県に入ります。
川崎の京浜重工業地帯を通過した後、横浜市内に飛来します。さらにツェッペリン伯爵号は横浜中心部上空で旋回して、往路と同じ都心コースを引き返し、霞ヶ浦に着陸します。

 なぜ?
ツェッペリン伯爵号は都内周遊を変更し横浜に飛来したのでしょうか?
関係者の記録が現在無いため真相は謎です。一部資料には
「研究者の間では、藤吉らの日本人が、発展した日本の首都の中心と横浜の姿を外国人に見せたがったらしい」とありますが、日本縦断だけでも異例のサービスと思える飛行に急遽、変更するとは中々考えづらいものがあります。
事実、
乗船客の一人でソビエト政府代表の地理学者カルクリン氏はソ連上空の飛行ルートリクエストにツェッペリン伯爵号が一切応じなかったため
(たいした要求では無かった)怒って霞ヶ浦で下船するという騒動も起っています。

(仮説)
1929年(昭和4年)当時、横浜市長は有吉忠一でした。
大正14年(1925年)5月7日、震災復興にために市長になったような有吉は、横浜港の拡張、臨海工業地帯の建設、市域拡張の三大方針を打ち出し大胆な復興事業を進めます。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

しかし、市の財政は逼迫していました。
横浜復興の総費用は約2億円、国が半額強を出しましたがそれでも約8,000万円は横浜市の財政でまかなう必要がありました。
当時の横浜の通常予算は年間約1,000万円でしたし、税収の大幅減少は明らかでした。
この時、国は横浜に“悪魔のささやき”をします。
アメリカからの借金です。米貨公債の発行です。
横浜市は当時4,000万円に当たる約2,000万ドルをアメリカから借金します。
時代は明らかに英国から米国に世界経済の主役が交代した時代です。
世界情勢情報が経済を左右し始めた情報経済の始まりです。
まさに「非対称性情報」下の市場経済が経験的に登場し始めました。

“ハーストミッション”がツェッペリン伯爵号にはあったのではないでしょうか?

 

ハースト自身がこの米貨公債を購入していたかどうか未調査ですが、少なくとも銀行団を含め多くのアメリカ資本が米貨公債の行方を気にしていたことは当然でしょう。
京浜工業地帯から横浜市内の復興状態を確認させ(写真に収め)彼らに提供することを企画したとしても不自然ではなかったでしょう。
ハースト新聞社が多額の資金で運行させた飛行船に
紅一点のGrace Marguerite Hay Drummond-Hay女史と
カメラマンを同乗させた目的・役目は何だったのでしょうか?
http://en.wikipedia.org/wiki/Grace_Marguerite_Hay_Drummond-Hay

イギリス外務省高官の未亡人であったヘイ女史は国際感覚と、動じない強靭な精神力の持ち主だったとも言われています。
何らかのミッションを持っていたKey Women であったことは間違いないでしょう。

この時代、横浜にとって昭和初期は大変重要な
曲がり角の十年といえるでしょう。

No.464 昭和5年頃の横浜

(余談)
霞ヶ浦からロスまでの機内食を用意したのが帝国ホテルだったそうです。
アメリカの名門ホテル、ウォルドルフ=アストリア経営者が帝国ホテルに勤めていた剣持確磨氏に依頼し実現しました。
重量制限の厳しい中、上質のメニューづくり当時のスタッフが苦労されたそうです。
61人6日分、総重量1トンの範囲でしかも保存できるように準備する必要がありました。
「鶏肉のソテー トリュフ風味ソース」
「フォアグラのパテ」
「ジェリー添えの鎌倉ハム」などが提供されたそうです。

機内献立表
 
20120819も横浜上空を飛行船が舞いました。

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