No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵

1888年(明治21年)8月16日の今日、
後に児童文学者となった巖谷小波が父巌谷一六に連れられて金沢富岡の初代内大臣「三条実美」の別邸”富岡海荘”に行きました。
その時父一六は54歳、小波は18歳でした。

富岡海荘の図 沖から見た富岡

巌谷小波の記録には訪問目的は記されていませんが、
この年、現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に三条実美は”富岡海荘”を建てていますから、新築祝いかもしれません。
どちらにしろ、明治天皇の最も信頼の厚かった内大臣「三条実美」の別邸ですから、多くの人々が訪れたことでしょう。
巌谷一六もかなり三条との交流があった関係と推測できます。


巖谷小波(いわやさざなみ)の代表作の一つ
唱歌「富士山」の作詞者です。
https://www.youtube.com/watch?v=aIOsF8fg4Dg
あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山
青空高く そびえ立ち
からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠く曳く
富士は日本一の山

一方父の巌谷一六(いわやいちろく)は
1834年3月17日(天保5年2月8日)〜1905年(明治38年)7月12日

明治の三筆(四筆)と呼ばれた書家で、本名は修、一六は号。
菱湖流と六朝書法の書風を確立します。

では、
この二人が訪れた「三条実美」の別邸はどこか推理してみます。

幾つか資料で三条の別荘の位置について表記されています。
「1888年(明治21年)に現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に別荘を建てた」
(富岡海荘図巻)

左手といってもそそり立つ岸壁の中腹あたり?

「〜富岡の海岸で、富士山の左手に三条の別荘があったと思われる。」
この資料だけで、勝手推測しました。
※海上から富岡海岸を見た海岸風景ですが
富士山の位置(見えたた)が正確かどうかは不明です。
飾りとして<富士山>を添える、デフォルメするケースは
良くありました。
富岡東2丁目は富岡総合公園一帯ですので公園の一角に富岡海荘はあっただろうと断定!?
周辺を探してみました。


深い追求は専門家に任せるとして、まだ京急も国道も整備されていない旧道からもちょっと距離のある場所に別荘を建てるとはすごいなと感心しながら富岡巡りをしました。すぐ近くに、同時期 大蔵大臣だった松方正義の別荘もあったということですから、良いロケーションだったようです。

小高い丘の中腹からは東京湾、千葉県が目の前に広がっています。当時横浜入港の外国船は 金沢沖を通りましたので 異国船のチェックもできたかもしれません。

(一六 新杵)
三条の富岡海荘を訪れた巌谷一六は、
近江の人で代々藩の医者の家だったそうです。
息子には医者になってもらいたかったようですが、小波は文学者の道を選びます。巌谷一六、明治38年に亡くなりますが、多彩な書を残しています。

ネットで調べたら 書がらみで意外な発見。
巌谷一六氏は横浜、関内の南仲通で1884年(明治17年)創業した洋風菓子製造の店看板の揮毫を引き受けています。

店の名は「新杵」で、創業者は 桐沢枡八で、東京には 桐沢清吉が支店を出しています。
「新杵」の文字(ロゴ)が開店に合わせて書かれたのか、判りませんがかなり個性的な文字です。

モースコレクションから発見

昔で言う「暖簾分け」で1910年(明治43年)に創業したお店が、現在清瀬に本拠を移し現在関東一円に多くの支店を出している「元祖 焼大福」の新杵です。

5種類もあってそれぞれ 美味しゅうございました。
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tadkawakita
  • tadkawakita
  • 横浜の歴史にざくっと関心をもって15年です。本腰をいれて学び始めて5年となりますが、学べば学ぶほどに深くなっていきます。
    Y2345というキーワードを作りました。1923年〜1945年までの横浜を軸に「横浜史」を乱学しています。
    史実に出会ったら、できるだけ現在の地を訪れるよう努力しています。

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