「どうする、どうする」と客席から声がかかり
明治・大正期
多くの人を熱狂させた女義太夫、当時の学生、庶民、文学者まで多くの人を熱狂させました。
中でも東京・横浜で人気を集めた女義太夫の太夫、竹本東猿(たけもと とうえん)が、惜しまれながら1905年(明治37年)8月12日の今日、打越の六角病院で亡くなりました。
38歳の若さでした。
大正11年の打越エリアの地図 赤い文が現在の石川小学校です |
昭和に架けられた美しい打越橋 |
明治の大衆芸能を語るには、この女義太夫が欠かせません。
女義太夫(おんなぎだゆう)
略して「女義(じょぎ)」と呼ばれた浄瑠璃に欠かせない「女性による語り芸」は、江戸後期に盛り上がりをみせますが水野忠邦の天保の改革によって禁止され下火になっていきます。明治に入り、女義太夫が再び人気を集めます。1877年(明治10年)寄席取締規則により女性の芸能活動が法的にも認められてからは江戸時代を凌ぐ人気芸能となり大正中期まで全国的に流行します。
(時代の人気スター)
東西、東京大阪で当代人気の女義太夫の太夫が続々登場します。その一人が竹本東猿、1867年(慶応3年)大阪に生まれ育ち、19歳で真打となり大阪の女義太夫界で名声を確立します。1899年(明治32年)31歳で上京し、東京、横浜で一世を風靡します。
東の東猿、西には小清(竹本小清)、豊竹呂昇ありと言われます。
(義太夫の魅力)
古典芸能の世界は比較的男性優位になりがちですが、義太夫に関しては女性の方が圧倒的な人気を誇りました。実力の点でも男性に劣らず迫力・技能があり芸術としての領域を確立しました。
浄瑠璃、義太夫の概念図 |
人気もハンパではありませんでした。
太夫は、日常生活のなかにも深く入り込む庶民のアイドルであり、時代のヒロインでもありました。中でも当時の書生(大学生)達が熱狂し佳境に入ると「どうする、どうする」と客席から声がかかり小屋は興奮のるつぼと化したと言います。このことから、彼らを「堂摺連=どうするれん」と呼んだりもしました。
自由民権、社会主義の集会でも娘義太夫が良く余興として楽しんだそうです。
岡本綺堂も「明治時代の寄席」『風俗 明治東京物語』の中で下記のように述べています。
「今日の若い人達も薄々その噂を聞いているであろうが、その当時における女義太夫の人気はあたかも今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。
江戸時代の女義太夫はすこぶる卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売出すようになったのは明治十八、九年頃からのことで、竹本京枝などがその先駆であつたと思われる。やがて竹本綾之助があらわれ、住之助が出で、高座の上は紅紫爛漫、大阪上りとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった。」(昭和11年刊)
品行方正で後進の模範ともされ、「堂摺連=どうするれん」の他名士達にも人気のあった竹本東猿、1905年(明治36年)夏、横浜馬車道の義太夫専門劇場「冨竹亭」(真砂町4丁目)で公演を終えた後、体調不良を訴え打越にあった「六角病院」に入院し乳がんと判ります。
左側のビルあたりが芝居小屋の位置と思われます。 |
それから一年の入院生活が始まります。1905年(明治37年)に入り転地療養が良いということで、大磯に転院しますが病状が改善せず、「六角病院」に戻り息をひきとります。夫で同じ義太夫の太夫だった12歳年下の邑井貞吉(明治12年生まれ)と、弟子達34人が駆けつけ、根岸で火葬されます。多くの贔屓客も訪れ、彼女の芸を惜しまれながら東京の自宅に戻ります。
■義太夫?女義太夫(現在は女流義太夫)
全く門外漢でしたが、最近静かに人気が高まっているようで、本場大阪、そして東京でも公演が増えているようです。
三味線は太棹の低音がしびれます。
太棹の迫力をご堪能ください。
(参考youtube)
女流義太夫「新版歌祭文」野崎村の段キリ
http://www.youtube.com/watch?v=d0tPop7P8p4
伊勢音頭恋寝刃
女流義太夫【竹本越道×豊澤仙廣】その1 伊勢音頭恋寝刃・油屋の段(1/4)
http://www.youtube.com/watch?v=9d2M2ajGlSI
『菅原伝授手習鑑』
http://www.youtube.com/watch?v=CSuBe2IrFX8