No.224 8月11日 (土)一衣帯水の地 横浜

2012年8月11日(土)の今日横浜中華街で、関帝誕が行われました。
2013年は7月に行われました。
同じく戦後の日中交流も
1964年(昭和35年)8月11日の今日、初めて貨物船「燎原号」が中国船として横浜に入港したときに始まります。
その後、両都市を窓口として人や物の往来が活発になり、地元経済界、横浜華僑総会などを中心に、上海市との友好都市提携への活動が地道にすすめられてきました。

中国上海市にとって横浜は1973年(昭和48年)海外初の友好都市となりました。以来、上海市は60を超える世界の都市と友好関係を結んでいます。中でも日本との友好都市は横浜、大阪、長崎、大阪府と最も多く提携されています。
横浜・上海の交流に関しては2010年に開催された上海万博に併せた「横浜ウィーク」を中心に一部7月4日で紹介しました。
No.186 7月4日 一衣帯水の地 上海(前)

横浜市が上海市に友好都市提携を呼びかけたのは、1971年6月のことでした。
すでに横浜市は、サンディエゴ市(米)、リヨン市(仏)、ボンベイ市(インド)、オデッサ市(ウクライナ)、バンクーバー市(カナダ)、マニラ市(フィリピン)などと姉妹都市提携を結んでいました。
戦後近くて遠い関係となった両市を友好都市にという活動は、台湾との関係もあり中々スムースにはいきませんでした。
さらに、文化大革命により交流の流れは一時停滞し、71年の日中友好条約提携後、上海と横浜の友好都市提携機運が高まります。
上海は、1842年の南京条約により日本(横浜)より早く開港します。
列強によるアヘン戦争に破れた中国が屈した開港でした。この情報がいち早く日本にも届き幕末の開港政策に大きな影響を与えました。幸運にも、不平等ではありましたが外交による開港後の横浜には、
欧米人とともに多くの中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)通弁(通訳)や外国人外交官の雇い人が来住するようになります。
その後、
1864年に横浜・上海間にPeninsular and Oriental Steam Navigation Company社が定期船航路を開設することで中国人の来住がさかんになります。開港都市の上海の先輩達は、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷などさまざまな新しい技術を横浜居留地にもたらします。
逆に北海道産のアワビやナマコなどの中華食材、磯子、金沢の近海海産物を大都市上海・香港に輸出する貿易が生まれます。堅実な近海貿易により、長期滞在者の他、この地に新天地を求める華僑も増え、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていきます。これが横浜中華街の原型となりました。

明治初年には横浜の華僑人口は約1,000人になります。横浜居留地の外国人人口の6割が中国人ですから、居留地を支えていたのは華僑達だったといっても過言ではないでしょう。
その後、中国革命の父 孫文も横浜と深い関わりを持ちます。
■孫文と横浜に関しては 8月17日に紹介します。

さて、話題を現在に移しましょう。今日は商売の神様であり、日本流にいえば中華街の総鎮守様である関帝廟に祀られている関羽の誕生日 関帝誕です。中華街の大きなお祭りの一つです。
横浜関帝廟について
http://www.yokohama-kanteibyo.com/kanteibyou.html

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