横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日はこの日に因んだ
エドワード・モースと
平塚福太郎にスポットライトを当てます。
●1877年(明治10年)の今日
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)博士が
横浜の日本亜細亜協会で「日本先住民の証跡」を講演しました。
この年1877年(明治10年)9月に西南戦争が終結しましたが史上最大の内乱に疲弊していた中での、学問への誘いは研究者にとって勇気づけとなったに違いありません。
モースは1877年(明治10年)6月、研究調査のために来日します。
横浜港に到着したモースは文部省に採集の了解を求めるため横浜から汽車に乗って「新橋駅」に向かう途中で汽車の窓から、
大森貝塚を発見したというエピソードは有名です。
モースの日本における功績は、貝塚発見、日本研究の他人類学・動物学という学問的分野の紹介だけではなく、
当時の“お雇い外国人”の刷新を行ったことです。
これまで高い賃金を払っていながら専門でない“お雇い”に代え
専門知識を持つ優秀な外国人教授の来日(招聘)に尽力します。
哲学の教授となったアーネスト・フェノロサはモースの尽力によるものです。
この日講演した「日本先住民の証跡」は
『大森村にて発見せし前世界古器物』から「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論したテーマの一部をテーマにしたようです。
その後モースは
1878年(明治10年)に二度目の来日で、北海道を度々訪れ精力的に採集を行います。また
1882年(明治15年)に三度目の来日時にはモースのコレクションに刺激された日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)も一緒に来日します。
彼はフェノロサ、ビゲローらと各地を訪れ、日本の(江戸以前)文化採集を行います。
集めた民具は800点余、陶器は2900点に上りました。その多くがボストン美術館に収蔵されています。
モースコレクションから小さな発見
●1912年(大正元年)の今日
横浜「本牧花屋敷」が開園します。
※他の資料では1911年(明治44年)もありますが恐らく1912年が正しいと推測します。理由は下記に。
「本牧花屋敷」は東京浅草の「花屋敷」にヒントを得て、当時の土木事業者「平塚組」経営者“平塚福太郎”が作った遊戯施設です。
園内には池や滝を設けて小さな動物園や水族館も併設
初夏には躑躅、秋には菊の花壇が多くの花で埋まり、
演芸の常設小屋もあり多くの人で賑わったそうです。
さらに1914年(大正3年)には海水浴場を併設します。
ここに遊園地を作るキッカケとなったのが
1911年(明治44年)12月
横浜電気鉄道(現在の横浜市電)の本牧線が西ノ橋と箕輪下(現本牧原)間が開通したことで
一気に本牧エリアの利便性が高まったことです。
この「本牧花屋敷」建設には近くにある「三渓園」の原富太郎も応援したそうです。
そもそも、原三渓は当時最先端の路面電車を本牧三之谷に引くことを強く望んでいました。しかし本牧に鉄道を通すには
山手の山にトンネルを掘らなければならないという難題が立ちはだかる状態でした。
この本牧隧道の工事を請負ったのが「平塚組」の平塚福太郎でした。
昔の名残はごく一部に残されています |
一帯の整地工事も同時に行い、住宅販売ビジネスも同時に行います。東急や阪急が行う前にデベロッパーとして鉄道連動型地域開発ビジネスの先駆けとなります。
「本牧花屋敷」完成後、平塚福太郎は自宅を本牧に移ししばらく暮らしていたそうです。この時に引越してきた家族に息子の平塚武二(当時小学校2年)が居ました。
※平塚 武二(ひらつか たけじ)
戦前の昭和、戦後初期の時代に活躍した児童文学作家です。
鈴木三重吉に師事し、雑誌「赤い鳥」の編集に携わり『魔法のテーブル』『Q』などを発表します。
1942年(昭和17年)童話集『風と花びら』を発刊。
戦後は空想と風刺にあふれた「ウイザード博士」などの童話を発表するなど古典や神話、歴史に取材した作品に優れたものがあり、代表作は『馬ぬすびと』『ものがたり日本れきし』、最後の作品は1973年の「ヨコハマのサギ山」あかね書房刊です。
意外なところでは
偕成社から出されている世界のどうわ12巻「イソップどうわ」
文が平塚武二 絵を熊田千佳慕が担当しています。横浜コンビの作品ですね。
弟子には横浜の児童文学者 長崎源之助、
横須賀出身で横浜の 佐藤さとる
いぬいとみこ、神戸淳吉らがいます。
「見たことがありますか」 平塚武二
海をみたことがありますか。
あります あります。
松の木が風にごうごうと鳴っていました。 まつかさを拾いました。
耳にあてたら 波の音が聞こえました。
ずっとむこうにレースのような波が見えました。
山を見たことがありますか。
あります あります。
汽車の窓から 大きな富士山が見えました。
富士山の歌をうたいました。 雪で真っ白な頂きでした。
墨色の空でした。
川を見たことがありますか。
あります あります。 深い深い朝もやでした。
葦の間に カイツブリが 浮いていました。
「ほうーい」とだれか呼んでいました。
しばらくすると 川は朝日で いっぱいになりました。
(以下略)
大正時代、羽振りの良かった平塚組は、本牧花屋敷の経営が上手くいかなかったのか、それとも平塚武二が後継者とならなかったからかどうかわかりませんが会社は消滅したようです。
それでも 本牧花屋敷オープンで、地域が発展し三之谷商店街はこの頃に誕生したと新井恵美子「原三渓物語」に書かれています。
児童文学者の平塚武二は、戦後早々には磯子の間坂に居を構えていたそうですから、本牧を引き払ったのは戦前のことかもしれません。
実は 平塚家「平塚組」の名残が 今も三渓園近くに残っています。
本牧三之谷・桜道に ひと際目立つのが「亀の子石神社」
「大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある。」(本牧三之谷町内会、横浜本牧観光協会)
ここに古い小さな香台が残っていますが
ここに「平塚組」とあり、ここに寄進し氏子であったことが判ります。
(その他まとめて)
●1925年(大正14年)の今日
横浜市民としてはじめて飯田九一の「初秋」が帝展日本画に入選した。
●1936年(昭和11年)の今日
トーマス転炉の技術導入に関して日本鋼管とドイツデマグ社との契約成立
●1940年(昭和15年)の今日
横浜公園で大政翼賛三国結盟市民大会開催
●1949年(昭和24年)の今日
帝蚕倉庫に北仲通5丁目地先の埋立免許が下ります
●2000年(平成12年)の今日
横浜情報文化センター開館