閉じる

No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結

横浜が開港の正式調印が安政6年6月2日(1859年)行われ、
外国人居留地が誕生した直後、事件は起りました。
7月27日(1859年8月25日)横浜居留地の波止場近くで“初めて”外国人が日本人に襲撃され、二人が死亡したのです。

このあたり?

開国はしましたが、日本は“安政の大獄”で一種の戒厳令による状態でした。
国内は一発触発、徳川政権は内外部に不満分子を多々抱えていましたが、列強各国も足並みは揃っていません。
まず英仏が江戸に乗り込み外交拠点を求めます。
米国も英仏の動向に注視しながら独自の外交を開始します。

イギリスはアジア外交のベテラン、ラザフォード・オールコックを日本担当にします。
安政6年6月7日(1859年7月6日)に、江戸高輪東禅寺にイギリス総領事館を開き、準備を始めます。
アメリカは既にタウンゼント・ハリスがヘンリー・ヒュースケンとともに
安政3年7月12日(1856年8月21日)に日本へ到着し江戸元麻布善福寺に公使館を開きます。
フランスは、少し遅れて
安政6年8月10日(1859年9月6日)にギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが初代の在日本フランス領事として赴任し済海寺(港区三田)に領事館を開きます。

一方
ロシアは早くから日本への開国要求を始めていましたが、決定打に欠けていました。
ペリーが開港を突きつけたことにより、ロシア政府はベラルーシ生まれのゴシケーヴィチを
安政5年9月18日(1858年10月24日)シベリア経由で箱館(現函館市)に総領事として着任させます。
他国の領事は横浜・江戸で活動しましたがロシアは函館を中心に外交活動を行います。
このスタンスが後の日露関係に大きく影響していきます。

前置きが長くなりましたが、
安政6年7月27日(1859年8月25日)ロシア海軍の海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフは1人のコックを連れて食料品を買うために上陸します。
横浜町3丁目青物屋徳三郎方で買物を済ませ、店を出たところを3人は突然襲撃されます。
記録には居留地の繁華街はまだ多くの店が開いていたと書かれていますから夕方だったのでしょう、2人は死亡、まかないコックは重傷を負います。
(武士らしい)犯人は堂々と逃走してしまいます。
これが、開港後(日本史上)初めて外国人に殺傷者がでた重大な外交事件でした。

(これ以降 短めに)
アジア外交のベテラン、オールコックは直ちに幕府に抗議し賠償を求めよ!とロシアに直言します。
ロシアの外交姿勢は決まらず、結局具体的行動に出ません。
結局賠償を求めず、丁重な埋葬と“永久管理”を要求し幕府も了承します。
幕府側もロシア側も事態の大きさに気がつかず、解決を現場任せにします。
この態度が英米仏の外交団に不信感を起こさせると同時に、外国勢力排除勢力「攘夷派」を勢いづけさせます。
ここから、生まれる結果は“攘夷派による「血のテロル」”でした。
 ■安政6年10月11日(1859年11月5日)
  フランス領事館従僕殺害事件
 ■安政7年1月7日(1860年1月29日)
  イギリス公使館日本人通訳殺害事件
 ■安政7年1月8日(1860年1月30日)
  フランス公使館放火事件
 ■安政7年2月5日(1860年2月26日)
  オランダ船長殺害事件
 ■文久元年5月28日(1861年7月5日)
  第一次東禅寺事件

ワーグマン画による第一次東禅寺事件

まだまだ続きます。数々の殺傷事件が起る中、
 文久2年8月21日 (1862年9月14日)
  有名な神奈川「生麦事件」が起ります。
徳川幕府は、各藩の攘夷派を抑えられず、外交関係は最悪になり、
倒幕
大政奉還
そして明治維新を迎えることになります。

(意外な結末)
幕末に起った数々の大事件の一つに「水戸天狗党の乱」があります。
元治元年(1864年)に水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵し一種の内乱になります。62人の挙兵から始まった尊皇攘夷派は数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がります。
※小説にもなり茨城では研究会が幾つも続いています。
しかし、水戸藩も混乱しリーダーシップを欠く天狗党は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を濃くします。
幕府は追討令を出し天狗党は逃走集団に変貌します。
逃走ルートは
那珂港→大宮→大沢→大子(元治元年11月1日)→川原→越堀→高久→矢板→小林→鹿沼→大柿→葛生→梁田→太田→本庄→吉井→下仁田→本宿→平賀→望月→和田→下諏訪→松島→上穂→片桐→駒場→清内路→馬篭→大井→御嵩→鵜沼→天王→損斐→日当→長嶺→大川原→秩父→中島→法慶寺→薮田-今庄→新保(12月11日)→敦賀(降伏)
という長距離、時間は一ヶ月に及びます。
最終的には天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除されます。
その中に、水戸出身の小林幸八という人物がいました。
ことの天狗党の乱に関する顛末を取り調べ中、
小林幸八は過去の事件にまで言及します。
ロシアの異人を居留地の波止場近くで襲撃したことを自供します。
幕府は彼を横浜に送致し死刑、最初の「異人斬り」は意外な結末を迎えることになります。
亡くなったロシア軍人二人は山手外国人墓地(ロシア22区19)に、
犯人の小林幸八は梟首(きょうしゅ)刑になりますが
明治になってから靖国神社に祀られています。


No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください