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No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。この記述を手がかりに。北方の鉄砲場のエピソードを探索してみる事にします。

現在の中区大和町あたり

明治初期の地図に、細長い不思議な敷地を見ることが出来ます。
“鉄砲場”とあるこの場所は、1865年(慶応元年)に居留地の外国人が作った射撃場兼練兵場です。現在のJR山手駅から本牧通りまでの大和町商店街がちょうどこの位置にあたります。

居留地軍の教練の合間にレジャースポーツとして射撃を始めました。
最初に始めた外国人はスイス人でした。ファブル・ブラント、フランソワ・ペルゴら時計商人の手で会員制「スイスライフルクラブ」が結成されました。すぐに別の射撃倶楽部「横浜ライフル・アソシェイション」が結成され毎週射撃会がここで行われたそうです。
「スイスライフルクラブ」のファブル・ブラントは時計商でもあり武器商人でもありました特に薩摩藩人脈に強く西郷 隆盛、大山 巌らもここで射撃を楽しんだそうです。
ファブル・ブラントについては、
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
に詳しいのでぜひ参考にしてください。スイス人と日本の関わりが幕末から深く繋がっていたことに驚きます。

さらに興味深いのが、時計職人であり時計商のフランソワ・ペルゴです。彼は生まれ故郷スイスの名門時計時計製造業の家に生まれました。
独立したてのスイス産業界の期待を背負い、スイス時計製造業組合からアジア(日本)支店開設の委任を受け来日します。
ペルゴは1864年にエドワルド・スネル(Edward Schnell)と横浜でスイス時計の輸入商社「シュネル&ペルゴ」を設立しますが、スネルが武器販売を優先しようとしたところからペルゴと対立してすぐに商会を解散し独自の会社F.ペルゴ(F.perregaux & Co. )を創設します。
ペルゴは当時の商社が武器販売で財を成していましたが、自らの時計技術を信じました。しかし時計はそう簡単には売れなかったようです。そのためサイドビジネスとして炭酸飲料水販売等も行っていたようです。
ペルゴは日本で最初に時計を製造し販売した人物といえるでしょう。
1870年代に入りペルゴの時計ビジネスはようやく軌道に乗り始めますが、居留地に良く発生した火事で会社を失ってしまいます。
そして会社再建の心労で脳卒中となり亡くなります。
(山手外国人墓地に埋葬されています)
(ここに漫画や資料で深い関わりを詳細に紹介しています)
http://www.gp-japan.co.jp/g_perregaux/f_perregaux/

実家であるスイス(Perregaux & Co. )社が横浜モデルを記念発売したことがあります。文字盤のYOKOHAMAにご注目ください。
フランソワ・ペルゴ限定モデル税込価格で1,050,000円(税込)だそうです。もう完売しているかもしれません。

ちょっと現在の鉄砲場(大和町商店街)付近を散策します。

銭湯も健在です
和服の染み抜き店があります
かつては「チャブ屋」もあった通りですが、今は下町風の商店街です。

「横浜側面史のチャブ屋」に関しては別な機会に ご紹介します。

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