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No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点

昨日は日英友好でした。
今日は日土友好の“さわり”だけ紹介しましょう。
(話せばながーいので)
1890年(明治23年)6月7日(土)の今日午前九時、一隻の軍艦で横浜港に入港します。
オスマン帝国(トルコ)の使節団で、彼らは約3ヶ月港内に停泊し、9月になり母国に向けて出港しました。
強い日土友好のキッカケとなった歴史に残る悲劇の序章の始まりです。

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トルコ共和国 国旗

「横浜通信員報じて曰く土耳其国軍艦エルトゲロル号は特命太子オスマンパシャを乗せて今朝九時横浜に入港したり」(毎日新聞)

E3-82-A8-E3-83-AB-E3-83-88-E3-82-A5-E3-83-BC-E3-83-AB-E3-83-AB-E5-8F-B7-E6-96-B0-E8-81-9E7.26.15別の資料では
「千八百九十年明治弐拾参年六月七日午前九時、土耳其国軍艦ヱルトグロール号にて同国使節オスマンパシヤ横浜着港、使節の一行上京し、翌十四日、帰艦す」(横浜沿革誌)

※土耳其国は当時の中国語表記で現在は土耳古と表記しますが漢字表記は特殊な場合にしか使いません。
(キッカケ)
1886年(明治19年)から7年(明治20年)にかけて皇室の小松宮彰仁親王ご夫妻は、皇室外交の一貫として欧州歴訪の際、オスマントルコ(現トルコ共和国)の首都イスタンブールを訪問、勲章を贈りました。
日本とトルコ友好の始まりです。

これに対し、オスマントルコのアブドュルハミト2世が日本に答礼使節を派遣することを命じます。
艦長以下609名の海軍士官学校を卒業したての若いスタッフと特使のオスマンパシャ(オスマン大佐)を乗せた軍艦(Ertuğrul Fırkateyni)は1889年(明治22年)7月に母国を発ちます。
※パシャとは高級軍人の称号
当時の新聞ではエルトゲロル号とかヱルトグロール号と表記されていますが、現在は正確な音に従いエルトゥールル号と呼ばれています。
「エルトゥールル」号は航海途上の各国を時間をかけ訪問します。各国で熱烈な歓迎を受けますが、長旅の疲労は横浜港に着く頃ピークに達していました。
E3-82-A8-E3-83-AB-E3-83-88-E3-82-A5-E3-83-BC-E3-83-AB-E3-83-AB-E5-8F-B7(悲劇の始まり)
6月7日(土)朝、「使節団」は横浜に入港し準備を整え、
6月13日(金)に皇帝親書を明治天皇に奉呈します。これが最初の訪日トルコ親善使節団となります。
この使節団の訪日は、あくまで儀礼的なものでした。
フリゲート艦「エルトゥールル」号は、日本まで11ヶ月の時間をかけました。
当時インド、東南アジアで勃興しつつあった多くのムスリム(イスラム教徒)国家に対しオスマン帝国が国威を示す(軍事プレゼンス)の役目も大きかったからです。
天皇に親書を届けた親善訪日使節団は、一路母国に帰還する予定でしたが、出港が大幅に遅れます。帰還に3ヶ月もの時間がかかります。
出港が遅れた理由は
航行で蓄積し続けた艦の消耗、そして未熟な船員の体力・精神力の消耗、一番の理由が資金で物資調達が十分にできなかったためだといわれています。
儀礼団というメンツもあったのでしょう。弱音を殆どはかなかったようです。
しかし現実には「エルトゥールル」号は健全な航行能力を失っていました。
悲劇はその後に起こります。
船舶も乗務員も疲労困憊の中、日本側の忠告も虚しく台風の危険を無視した無謀な航行の結果、「エルトゥールル」号は和歌山沖で乗員の殆どを失う大惨事を起こします。漂着した生存者と多くの遺体を(串本)村を挙げて助けました。事件当時に建てられたエルトゥールル号殉難将士慰霊碑が現在も和歌山県串本町にあります。
詳しくは下記をご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルトゥールル号遭難事件
 
(1億円の義援金を集める)
トルコ共和国を旅行すると、殆どの国民が日本ファンであることに気がつきます。緯度も日本に近く四季に恵まれたトルコは、義務教育で「日本」について学びます。(日本の子供達は殆ど知らないでしょう)
トルコにとって日本は一時期(第一次世界大戦時)を除き、友好国であり続け、尊敬の意を持ち続けている親日的な国民です。
多くのトルコ国民を親日家にした最大の事件が、エルトゥールル号遭難事件の14年後の日露戦争です。
1904年(明治37年)2月8日から1905年( 明治38年)9月5日に起こった日清戦争に続く総力戦でした。
結果は小国日本が超大国ロシアに勝ち世界を驚かせました。トルコはトルコの宿敵ロシアの敗北に歓喜します。

ロシアの敗北でトルコへの影響力が低下したことと帝政オスマンの弱体化でトルコでは独立運動が高まります。
そのリーダーとなったのが初代大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル)です。

日本がロシアとの緊張を高め、日露戦争に突入した時に、
トルコに長期滞在していた唯一の日本人がいました。

実業家、山田寅次郎(茶道宗徧流の第8世家元 山田 宗有)です。
彼は日露戦争に日本が勝利する以前からトルコの(尊敬に値する)有名人でした。
民間人、山田寅次郎をトルコで一躍有名にしたキッカケとなった事件が、
1900年(明治33年)に起こった土耳古軍艦「エルトゥールル」号遭難事件でした。

山田寅次郎はこの悲劇に対し日本全国を回り民間人として義援金を集めます。
山田寅次郎は、この義援金を(民間人として)トルコに届け熱狂的に迎えられます。
国王の依頼で短い期間でしたが士官学校で日本語を教えます。
その時に、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル)がいたそうです。

その後、山田寅次郎はトルコで事業を始め日本とトルコの友好に努めます。
当時日本とトルコは国交がありませんでしたので日土友好は民間の手で築かれたのです。

(映画化)
この事件をテーマにした映画が2015年(平成27年)に制作されました。
「海難1890」のタイトルです。1890年(明治23年)事件の起こった日です。
「『海難1890』(かいなん いちはちきゅうぜろ)は、2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して、合作及び朝日放送創立65周年記念作品第2弾、BSフジ開局15周年記念作品として制作された。(wikipedia)」
主演は内野聖陽、遭難したトルコクルー達の治療にあたった医師田村元貞の役を熱演。
アマゾンプライムで観ることができます。
http://www.kainan1890.com

(余談)
トルコのお土産で一番人気が「青い目玉のお守り」
トルコ語でNazar boncugu(ナザール・ボンジュー)と言います。
わが家にもNazar boncuguがあります。(門扉に飾ってるので錆びてますが)トルコの伝統的なお守りで紀元前より使われてきたものです。
一説メデューサの目とも言われています。メデューサの目はギリシア神話では目を見ると石になるという神話ですが逆にトルコではお守りの目だったんですね。立場(歴史的には宗教戦争)変われば 魔女が女神に!!

(10年来のトルコの友人から購入したものです)
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わが家常備のトルコ国民酒

彼らは「ラッキ」と呼び、ストレートでぐいぐい飲みます。
アルコール度45度あります。
1本空けた翌日は(悪酔いはしませんが)独特の香りが体を包みます。

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