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No.144 5月23日 教育熱は時代を超えて

明治時代は近代化の嵐が吹き荒れた時代でした。
様々な新制度が異例のスピードで導入されていきました。
庶民の生活変化は若干の時間差があったようですが、
 早々に新しい制度で時代を感じ取った変化が「学校開校」です。
明治の初期には、地域の力”で初等学校が全国各地に多く開校しました。
いずれの時代も教育熱は高かったようです。
1873年(明治6年)の今日、5月23日に開校した六浦小学校を通して横浜の学校物語をご紹介します。

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横浜学校沿革誌昭和32年刊より

まず、六浦小学校のHPをご覧ください。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/mutsuura/
最近、小学校のHPはあまりチェックしたこと無かったので驚きました。
情報量充実していますね。(思わず私も自分の母校をチェックしました)

■横浜市金沢区六浦小学校
1873年(明治6年)学制に従って
第一大学区・第七中学区・第七十四小学の「三分学舎」として創立しました。
三分学舎の三分は当時の村名の三分村に因んで命名されました。
地域でまとまり“村の学校”という意味合いが大きかったようです。

学校開設で一番の課題が「教室」をどこに開くかでした。
全国の学校の多くは“お寺”や“個人宅”に設立されました。
六浦小学校「三分学舎」も地域で由緒ある「浄土宗光傳寺本殿」を借りて設立されました。

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この光傳寺は、1573年(天正元年)の創建と伝えられる浄土宗の寺です。
光傳寺には、本尊阿弥陀如来立像の「首は春日、胴体は運慶」という伝説に関する縁起が残されていて12世住職の慧通が書き留めたものといわれています。
また、地蔵菩薩像は「永仁2年増慶」の銘のある秀作で、神奈川県の有形文化財に指定されています。

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山門

江戸名所図絵から見るとこの光傳寺の建つ六浦周辺は、侍従川に沿って風光明媚なところだったようです。朝比奈を通じて鎌倉を結ぶ要衝にあった六浦は、多くの人で賑わっていた様子が分かります。

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江戸名所図絵

(現在も若干面影を辿ることができます)
【小学校の歴史】
Wikipediaでは小学校設置の歴史を下記のように記しています。
「1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、
1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、
1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。」
制度上は「1873年(明治6年)1月15日」を皮切りにとありますが、全国各地には(一部歴史的藩校、寺子屋を除いても)すでに初等学校の役割をもった学舎が多く開校していました。明治の新制度導入以前でも教育に関しては地域の関心は高かったようです。
1873年(明治6年)に学制がスタートし、横浜でも次々と初等教育学校が設置されます。

■横浜(現在の市域)で明治期に開校した初等学校は68校あります。(現在345校)
記録上現存する横浜最古の小学校は
 明治5年7月に開校した緑区北八朔町にある横浜市立山下小学校(中村学舎)です。
以下初期の初等学校をリストアップします。
開校日の後の学舎名は開校当時の学校名です。
 子安小学校(明治6年1月14日開校)←子安学舎
 北方小学校(明治6年2月10日開校小学就蘭学舎
 都岡小学校(明治6年2月25日開校今宿学舎
 鉄小学校(明治6年4月1日開校鉄学舎
 元街小学校(明治6年4月1日開校三到学舎
 末吉小学校(明治6年4月1日開校末吉学舎
 星川小学校(明治6年5月8日開校星川
 磯子小学校(明治6年5月1日開校森田学舎
 保土ケ谷小学校(明治6年5月5日開校小学保谷学舎
 日野小学校(明治6年5月10日開校日野学舎
 大綱小学校(明治6年5月2日開校篠原?
 六浦小学校(明治6年5月23日開校三分学舎
と続きます。
※根岸、磯子小学校も明治6年5月に開校
これらの学校の殆どが地域のお寺や個人住宅に間借りしてスタートしました。
あなたの出身小学校の歴史、改めて確認してみると意外な発見があるかもしれません。

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