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No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男

Prison camps in Yokohama
戦時中、全国に多くの捕虜収容所(Prisoner of war, POW)が設置されました。
横浜市内にも幾つか俘虜収容所がありました。
最も早期に設置された東京俘虜収容所第三分所は「横浜収容所」と呼ばれ、1942年(昭和17年)〜44年(昭和19年)の今日5月1日まで横浜公園にあった(旧)球場を代用し開設されました。

現在の横浜スタジアム

俘虜記)
期間中約300人を収容した「横浜収容所」には、ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた日本人がいました。
彼の話を紹介する前に、俘虜の話をしておきましょう。
現在では「捕虜」と表記しますが、第二次世界大戦時まで一般的に「俘虜」と表記しました。横光利一賞受賞の大岡昇平「俘虜記」は戦時中の米国軍下の“日本人捕虜”経験を下に書かれた秀作です。
「第2次大戦中、日本軍はアジア・太平洋地域で約14万人の連合軍将兵(イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インドなど)を捕虜としました。彼らは各占領地で日本軍が使用する鉄道や道路、飛行場などの過酷な建設作業に従事させられるとともに、その一部、約3万6千人は日本国内にも連行され、労働力不足を補う要員として、炭鉱や鉱山、造船所、工場などで働かされました。
捕虜たちの生活は悲惨をきわめ、飢えや病や虐待などにより、終戦までに国内外合わせると3万数千人もの人々が亡くなりました。死亡率は27%に及びます。」
※POW研究会データ転載
http://www.powresearch.jp/jp/index.html

横浜にある英国領墓地がトップ画面に使われています。

今だ日本への遺恨が残っている連合軍俘虜経験者が、時々問題を再燃させる時がありますが、戦後処理の曖昧さがこの問題を引きずっているようです。
戦後、
これら俘虜収容所の管理責任者の多くが軍事裁判によって俘虜虐待の罪名で戦犯として死刑を含め処罰されました。

(ハイデルベルク・ヘンリー)
悲惨な史実の中で、俘虜と日本人との心温まる交流の物語があります。
1942年(昭和17年)9月に開設された東京俘虜収容所第三分所「横浜収容所」の所長だった林純勝中尉は、あるイギリス軍人たちから
ハイデルベルク・ヘンリーとあだ名されていました。

「村岸大尉-これは紳士だ。実に立派な人物だよ。”ジェントルマン・ジム”っていうのが彼の渾名になっているんだ」 
「しかし、”ハイデルベルグ・ヘンリー”はピカ一だろうな。林という大尉でね、仏教の坊さんだそうだ」 
「一番最初に林大尉に会った時の事を思い出すよ。横浜でね。ヒットラーばりのチョビひげを生やして、ドイツ式の山高帽子をかぶってるんだ。畜生! と思ったね。このドイツ野郎がっ! てんで”ハイデルベルグのヘンリー”と渾名をつけたわけさ」 
「ところが、これがとんだ認識不足でね、トラックへのせられて暫く行くと雨が降って来たんだ。すると、どうだい、ヘンリー先生、車を止めさせてね、病人の捕虜を運転手の席にのせて、自分はわれわれと一緒に濡れて行ったんだ。アレッと思ったよ。それからすっかり好きになったんだが、良い人だよ、彼は」
   (ルイス・ブッシュ著「おかわいそうに」より)

“ハイデルベルグのヘンリー”こと、林純勝中尉は戦時下にありながら俘虜達をして「日本一の収容所」、GHQの調査でも「相対的に公平」と評価された収容所をマネジメントした人物でした。
彼の故郷は長野県で、善光寺の末寺教授院(宿坊)の僧侶でした。
この教授院は現在外国人にも人気のあるユースホステルとなっています。

宿坊、善光寺教授院

収容所では、日本軍側との交渉等を行う俘虜達の中でリーダー(先任将校)を決めます。
「横浜収容所」の先任将校になったのがカナダ空軍のバーチャル(Leonard J. Birchall)少佐でした。
日本の機動部隊(南雲艦隊)によるセイロン奇襲攻撃を未然に防ぐ軍功により「セイロンの救世主」と呼ばれたヒーローでした。
彼は林所長(中尉)と戦時下の信頼関係にあったようです。
林中尉と共に第13分所、東京本所を経て最後は長野県諏訪鉱山の第6分所で終戦を迎えることになります。

Leonard J. Birchall

多くの収容所責任者が軍事法廷で重い罪状で裁かれる中、林純勝中尉は「横浜収容所」の責任者としてではなく別の罪で重労働3年になりますが、1年に減刑されたそうです。
この極東軍事裁判で、林純勝中尉側の弁護に立った弁護士が後の横浜市長となった飛鳥田一雄です。
(余談)
ルイス・ブッシュ氏は現在鎌倉にお住まいだそうです。(2012年未確認)
戦前 火野葦平さんの作品を英訳された方で、日本人と結婚し暮らしていましたが開戦で帰国、英国軍人として参加しますが(運命のいたずらで)香港で俘虜となり東京大森、19年に横浜に送られます。「おかわいそうに」によれば、山手の「234番館」と思われる洋館に収容されていたようです。


(未調査)
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/yamate234
参考文献
「東京第3分所(横浜球場)」笹本妙子
「おかわいそうに」ルイス・ブッシュ

【横浜市内の収容所】
■横浜分所
1942年9月12日、横浜俘虜収容所として、横浜市中区横浜公園の横浜球場スタンドを利用して開設。
1944年5月1日閉鎖。捕虜は日清製油分所、横浜耐火煉瓦派遣所、横浜船舶荷役派遣所へ移動。使役企業は横浜船舶荷役など。収容中の死者7人。

■東京芝浦電気鶴見分所
1943年12月25日、横浜市鶴見区末広町1-124の日本鋼管鶴見造船派遣所内に開設。
使役企業は東京芝浦電気鶴見工場。
終戦時収容人員121人(蘭72、英20、豪17、米12)、収容中の死者44人。このうち31人は空襲により死亡。

■日清製油分所
1944年5月1日、横浜市神奈川区千若町に開設。
使役企業は日清製油横浜工場。


■三菱重工横浜造船派遣所
1942年11月18日、横浜市神奈川区橋本町1-1に開設。
使役企業は三菱重工横浜造船所。

■日本鋼管鶴見造船派遣所
1943年1月21日、横浜市鶴見区末広町1-124に開設。
使役企業は日本鋼管鶴見造船所。収容中の死者23人。

■大阪造船横浜工場派遣所
1943年4月2日、横浜市鶴見区末広町1-12に開設。
使役企業は大阪造船横浜造船所。収容中の死者1人。

■日本鋼管浅野船渠派遣所
1944年3月20日、横浜市神奈川区橋本町2-1に開設。
使役企業は日本鋼管浅野船渠造船所。収容中の死者なし。

■横浜耐火煉瓦派遣所
1944年5月1日、横浜市磯子区西根岸馬場町に開設。
使役企業は横浜耐火煉瓦。収容中の死者なし。

■横浜船舶荷役派遣所
1944年5月1日、横浜市中区山下町32に開設。
使役企業は横浜船舶荷役。収容中の死者なし。

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