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No.115 4月24日 忘れ得ぬ事故の記憶

誰が悪いのか?ではなく何が悪いのか?
俯瞰することを忘れまい。
事態を限定的にすることで解決した気分になるまい。
人災は当事者の責任以上に多くの責任を含んでいる。
1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、国鉄戦後五大事故の一つが横浜で起りました。
大惨事「桜木町事故」です。

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まずは、映像をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=DHZr6HTAWaY
http://www.youtube.com/watch?v=NfziGZsaW-s&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ClWXxoJczd4&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=8y0SqHR9lKk&feature=endscreen&NR=1
(事故概要)
この日、国鉄根岸線桜木町駅構内の上り線で碍子(がいし)交換工事が行われていました。
電気工事作業員が作業中誤ってスパナを落としたとき、上り線の架線が垂れ下がってしまいます。
その時、横浜駅を10分遅れで出発し桜木町に9分遅れて到着の予定の赤羽始発の電車が時速35kmで進入してきました。
運転手は、信号機付近で上り線の架空線がたるんでいたことと、工事関係の電力係員が数名いることを確認しますが、下り線の架線に異常を認めなかったためそのまま駅に進入します。
一方、工事現場では上り線のみ列車を進入させないよう手配し、下り線は通常通り運行できると判断します。
ところが、垂れ下がっていた上り線の架線に先頭車のパンタグラフが絡まり、運転士は急いでパンタグラフを下ろそうとしますが、先頭車両のパンタグラフは破損し電線と車体が接触した状態のままになります。
ショートが起り激しい火花(アーク)が発生、車両の屋根に着火し木製の天井から炎上を始めます。結果、先頭車両が全焼し、2両目が半焼、車両内の乗客の殆どが逃げられない状態で焼死者106人、重軽傷者92人を出す大惨事となります。

(結果)
工事に関わった者と、運転手計5名が起訴され最高裁まで争われます。そして事故から9年後の昭和35年に最高裁で信号係、電気工手長、電気工手副長、電気工手、運転手らに有罪が確定します。(禁固6ヶ月〜1年10ヶ月)
国鉄戦後五大事故となった「桜木町事故」の発端は、工事関係者の停止指示ミスと前方不注意でしたが、そこには様々な要因が重なっていたことが明らかになります。

戦後急激な復興速度に対し車両が間に合わず、戦時中に設計された63形車両タイプを限られた資材で製造、燃えやすい木造製に引火しやすい塗料を使用したこと。
(主に昭和21年ごろ製造)
窓ガラスの(ガラス)が不足し、再利用しやすく窓の構造を3段構造にし開口部の高さを29cmと小さくし中段を固定したことで窓から非難できなかったこと。

自動扉が作動せず、乗務員や駅員が非常用ドアコックの位置を知らなかったため扉を外部から手動で開けることもできなかったこと。
変電所の高速度遮断器が作動せず約5分に渡って架線に電気が流れたままになったこと。
(事故時の隣接変電所の遮断は電話連絡に頼っていた)
電気配線の絶縁の質が劣悪な設計であったこと。
(事故以前にも車両発火トラブルが起っていた)
車両端にある貫通扉が内側に開く構造であったこと。
(乗客がここを通ることは想定されていなかった)
等々(現在では)考えられない(想定外?)要因で大惨事となります。

(波及)
この事故は、もう一つ大きな波紋をもたらします。
事故車両となったモハ63形電車は、戦中に設計され戦後800両近く製造された中、全国の私鉄発注車として約100両近く製造されていたからです。
国鉄を含め、鉄道関係者はその対策に追われます。
対象車の安全対策工事はわずか2年強で完了したそうです。
この事故の社会的影響も大きいモノがありました。
マスコミの国鉄批判、プロ野球球団「国鉄スワローズ」への逆風、国会の紛糾があり第2代国鉄総裁加賀山之雄の引責辞任という結果で終息を計ります。
この時期、国鉄として新しい車両開発も行っていました。
伝説的名車両「80系電車」の開発者でもあった島秀雄車両局長はこの事件の責任を取り国鉄を去ります。

(背景には)
この事故原因を詳細に追い、一歩さがって事故を俯瞰した時に、この事故は防げなかったのだろうか?と強く感じます。
戦災という大惨事の後の復興方針にずれは無かったのか?
何を急ぐべきだったのか?
何を守るべきだったのか。
この事故から学ぶことはまだまだ多くあります。

(さらに)
「桜木町事故」から12年後の1963年(昭和38年)11月9日夜に、国鉄戦後五大事故の二つ目「鶴見事故」(死者161名、重軽傷者120名)が横浜で起きます。
貨物車輛の競合脱線に旅客車両が衝突して惨事につながりました。
この時にも“人災”が重なります。

(そしてみらいへ)
今や世界で最も安全な超高速鉄道「新幹線」は導入後現在まで無事故(一部故障を除く)を誇っています。
この安全な新幹線設計の陣頭指揮に立った人物が「桜木町事故」で責任をとった島秀雄技師長です。蒸気機関車D51形の設計、そして国鉄退社後は宇宙開発事業団(NASDA)(現在のJAXA)初代理事長も務めました。

鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、この二つの事故の慰霊碑があります。

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桜木町事故の慰霊塔
総持寺風景

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