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No.110 4月19日 待つという粋な時代

ケータイで大きく変わった社会生活の一つが、「待ちぼうけ」の激減です。
その昔、駅にはチョークの「伝言板」がありました。
相手を信じて待つという行為が無くなったのが現代です。
年表を読んでいたら横浜の待ちぼうけに関する面白い記事に出会いました。
1904年(明治37年)4月19日の今日
「杉村楚人冠(31)横浜に行き、来朝予定のマギー夫人一行を乗せたショーマット号を待つが、着かず、宿に泊まる。萬朝報の松居松葉も来る。20日も着かず、又泊まる。」
『楚人冠全集』1所収「退屈の記」より

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船旅の時代とはいえ、のんびりした時代です。
予定日に到着しないということで、近くの旅館に二日も泊まって待つとはゆったりしています。
戦後、新幹線の開通で日帰り出張が激増し町場の簡易旅館が影響を受けたと言いますから、船から鉄道、そして飛行機の時代で暮らしが大きく変化していきました。
バンドホテルを含め、港の宿泊施設の役割に「待つ」ということもあったようです。

ここに登場する杉村楚人冠という人物、本名 杉村廣太郎は1872年(明治5年)和歌山県に生れました。
特に横浜に因んだ人物ではありませんが、彼の貢献が横浜にも残っています。
彼の人物像に関して詳細は
http://ja.wikipedia.org/wiki/杉村楚人冠
を参照してください。
杉村廣太郎が「楚人冠」と名乗ったのは、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤慨し、以来「楚人冠」と名乗ったということです。
アメリカで新移民法が施行されたことに対しても、「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判しました。
杉村廣太郎「杉村楚人冠」はアメリカ公使館勤務の後、朝日新聞社に勤務し、現代で言う外信部で活躍し後に日本初の「整理部」を創設します。
新聞社の「整理部」?
知らない方には、なんなのそれ!
という部署ですが、
新聞社の重要な部署です。
(私の人生を変えた師匠が朝日新聞整理部の方でした)
良く冗談で「おまえ整理部ってことはリストラ?」と言われたそうです。
「整理部」は生き字引の集団で、短時間に記者の記事の裏をとって間違いを訂正、時には原稿の書き直しも行いました。
特に腕の見せ所が見出しタイトル!で
東スポ?ではありませんが これで即売系の売上が変わったそうです。
現在、新聞社が整理部を簡素化して各新聞社の個性を失ったともいわれています。
「整理部」一言で言えば
記者の原稿を整理して、紙面に組む仕事をする部署です。新聞の編集部ですね。

(ちょっと整理部)
http://www.nikkei.co.jp/saiyo/employee/ookoshi.html
https://www.kanaloco.jp/kanacoco/community/c201104281/topic/5159/
http://saiyo.nikkansports.com/blog/post_63.html

杉村廣太郎は、「最近新聞紙学」「新聞の話」他、新聞学に関する名著を数々著しました。
1929年10月1日、東京帝国大学文学部新聞研究室の創設にも貢献したそうです。
新聞文化の殿堂といえば、横浜市中区 本町通にある
2000年10月にオープンの「日本新聞博物館 NEWSPARK」です。
http://newspark.jp/newspark/
ちなみに、日本ではじめて!は「熊本日日新聞社新聞博物館」です。

(余談)
「牧場の朝」は文部省唱歌ですが「楚人冠」作詞といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=emozJk3DSQk
作曲 船橋栄吉

(余談2)
杉村楚人冠が、横浜で待ちぼうけをくった「ショーマット号」に乗ったJohn Gillespie Magee牧師は、1912年から1940年まで中華民国で、米国聖公会伝道団の宣教師として活動し極東国際軍事裁判で南京事件の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に膨大な証言を行ったことで有名。

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