(ちょっと紹介のタッチを変えてみました)
はじまりは、一枚の絵はがきでした。
「横濱吉浜橋ヨリ山手ヲ望▲」と題した風景には吉浜橋あたりから石川町から山手の洋館群が描かれています。
そして、右側に川に沿って倉庫群が見えます。
今日は、この連なるレンガ倉庫から始まる謎解きです。
■いつ頃の風景なのか?
古地図から探ってみることにしました。
1882年(明治15年)の地図でこのあたりを確認すると、
「Iron works 製鉄所」とあります。
でも、地図上の配置図と描かれている倉庫群とは明らかに異なっています。そこで、もう少し時間をずらしてみました。
1892年(明治25年)の地図を見ます。
倉庫が並んでいます。「石炭庫」と表記されています。
レンガらしき倉庫群がしっかり描かれています。
このことからハガキの風景は、
少なくとも明治15年以降25年頃であると推測することができます。
では、
この倉庫群はどんな「製鉄所」なのか?調べてみることにしました。
ハガキに描かれている川(運河)は派大岡川といって現在は埋立てられ、製鉄所跡地はマンションに変貌しています。
中華街「西陽門」が建っています。
■いつ頃の製鉄所なのか?
跡地に説明文が掲示されています。
ちょっと長いですが引用します。
「横浜製鉄所は、江戸幕府がフランスと提携し、艦船の修理と洋式工業の伝習を目的として、この地に設置した官営工場です。
横浜製鉄所は、横須賀製鉄所に先立ち緊急に建設されました。元治二年(一八六五)二月に着工、九月下旬には開業し、船舶修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めました。首長(初代ドロートル、のちゴートラン、ルッサンなど)以下多くのフランス人技師・職工が建設や創業に携わり、わが国における近代的産業技術の導入、発展の上で大きな役割を果たしました。
慶応四年(一八六八)閏四月、横浜製鉄所は、横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれました。管轄は神奈川裁判所、大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(一八七一)横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、五年海軍省に移管し、横浜製造所と改めました。六年大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にします。七年内務省に移管。八年高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなりました。十一年再び海軍省所管。十二年石川島平野造船所(現、株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、十七年に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は、翌年海員掖済会(現、社団法人日本海員掖済会)に貸与されました。
平成二十二年三月 横浜市教育委員会」
ここに一人の人物が登場します。
平野富二という長崎出身の実業家です。
彼は
1876年(明治9年)に石川島平野造船所を作り、
1879年(明治12年)に製鉄所の必要性を感じ海軍省からこの製鉄所を借受け、
1883年(明治16年)には造船所のある東京石川島に製鉄所と機材の移転を出願します。
そして翌年の
1884年(明治17年)の今日(4月17日)に許可がでます。
■平野富二とは?
ちゃんちゃん!!
これで物語は、お終いかと思いましたが意外な第二幕が始まります。
「横浜製鉄所」を東京に移した男、平野富二氏は造船所を経営する財産をどうして築いたのでしょうか?
彼は造船所の技術的ノウハウは、
長崎時代に長崎製鉄所兼小菅造船所長時代に得ました。
この頃、
師と仰いだ人物が教育者だった本木昌造という人物です。
本木昌造は「日本の鋳造活字製造の祖」といわれています。
本木昌造の依頼で平野富二は1872年(明治5年)に東京の築地で鋳造活字製造及び印刷事業「東京築地活版製造所」を起こし大成功を収めます。
明治に入り情報革命→出版革命が起っていました。
新聞や書籍の発行に必需品であった「活字」が飛ぶように売れる時代が始まったのです。平野富二は活字ビジネスの成功で前述の石川島平野造船所の他、機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張します。
金属製活字の歴史の中で姿形・品質ともに群を抜く技術を誇ったのが、「東京築地活版製造所初号活字」と「秀英舎初号活字」でした。秀英舎は現在の大日本印刷株式会社となりました。「東京築地活版製造所初号活字」はモリサワの「民友社かな書体(かな明1)」あるいは写研の「かな民友明朝(KMYEM)」となり現在でも生き続けています。
この「東京築地活版製造所」は、1938年(昭和13年)に廃業します。
築地体初号見本 |
■築地活字1919
さて物語は、最終章に入ります。
この「東京築地活版製造所」(略称築地活字)」が絶好調だった1919年(大正8年)6月、活字と印刷材料の販売を目的とした「横浜博文館」という会社が横浜市中区南太田町に創業します。
「横浜博文館」は平工太三郎と出版社の博文館の共同出資でした。
同時期1920年(大正9年)には、活字デザイン界の巨星、岩田百蔵が「岩田母型製造所」を創業します。
姻戚関係にあった両社は、戦前の活版界をリードします。
第二次世界大戦の戦災で全てを失いますがお互いに助け合い活字母型と鋳造設備を復興させます。そして「株式会社平工商店」を再興し、
2010年(平成22年)「株式会社 築地活字」と社名変更し現在にいたります。
1938年(昭和13年)に廃業した東京築地活版製造所の活字母型も一部継承したために、活字界では名誉ある名称を名乗ったそうです。
http://tsukiji-katsuji.com/profile.html
http://katsujinokobako.blogspot.jp/
横浜で生まれた製鉄所が横浜を去り、そして活字という文化として横浜に帰り、守られてきたというのも何か不思議な縁を感じます。
※まだ「株式会社 築地活字」には伺っていません。
ぜひ一度伺ってみたいと思っています。
→今年は横浜メディア開拓史を探ってみたいと思います。