No.106 3月15日 生きるとは、生きる価値を見つけることだ(修正)

長谷川伸、
いつかは紹介しなければならない横浜ゆかりの人物です。
長谷川伸は1884年(明治17年)の今日、
横浜市中区日ノ出町で生まれ1963年(昭和38年)に79歳で亡くなるまで多くの作品を残し、多くの門下生を育てました。
作品の中にも横浜生活を活かした作品が多く残されています。

長谷川伸、本名は長谷川伸二郎で横浜ゆかりの偉大な作家です。
かれの偉業は
http://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川伸
を見るだけでもその一片を知ることができます。

私が長谷川伸を少し深く知るようになったのは
昭和59年、長谷川伸が作った文学学校(勉強会)新鷹会記念碑の打ち合せで平岩弓枝さん(現在 理事長)にお会いすることになり にわか勉強をすることになったことからです。
それまでモノクロ時代劇で彼の作品を観ていましたが、原作者として程度でした。

長谷川伸のすごさは大衆文学の分野に新しいスタイルを築いたのみならず学ぶことへの謙虚さ、誠実さを弟子に教えたことでした。

(人を育てる)
新鷹会の門下生には長谷川幸延、村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、鹿島孝二、大林清、棟田博、神崎武雄、梶野悳三、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎、武田八洲満、田岡典夫、井手雅人(順不同)らが名を連ねています。
新鷹会から輩出した直木賞作家たちは
 昭和15年(上半期) 河内千介『軍事郵便』
   15年(下半期) 村上元三『上総風土記』
   17年(下半期) 田岡典夫『強情いちご』
   17年(下半期) 神崎武雄『寛容』
   24年(下半期) 山田克郎『海の廃園』
   29年(下半期) 戸川幸夫『高安犬物語』
   30年(下半期) 邱永漢『香港』
   31年(下半期) 穂積驚『勝烏』
   34年(上半期) 平岩弓枝『鏨師』
   35年(上半期) 池波正太郎『錯乱』
これだけでも 新鷹会のすごさがお分かりいただけると思います。

平岡正明は自著「横浜的」の中で、ハマッ子代表として推したいのが長谷川伸。
と紹介し彼独特の大見得表現でガルシアマルケスを引き合いに出し、長谷川評を展開しています。
急激に日本一の繁華街になった横浜、一攫千金の『夢』に暮らす人たちと容赦ない現実の中で、渡世の義理人情が唯一の横浜流の信頼感ではなかったか?

長谷川伸の作品は戦後、昭和を感じる作品として多く映画化されます。戦後の共同幻想が崩れ去ったこの時代に彼の作品群を改めて読み直してみたいものです。

「先生の本名は長谷川伸二郎、明治十七年(一八八四年)横浜日の出町で生れた。八歳のとき家業の土建業が倒産し、それからは自力で働き続け小学校も三年で退学した。
二十歳のころ横浜のジャパン・ガゼット紙の記者になり二十七歳のとき東京の都新聞の伊原青々園氏へ手紙を送って入社、筆名で短編を発表するうち、菊池寛氏に認められた。大正十四年、四十一歳で退社し作家として出発した。
以来、小説と劇作の双方で華々しい活躍が始った。
先生は生涯を通じて、文学の師は持たなかった。
該博な知識はすべて独学で得たものであった。
股旅物の始祖といわれたが先生の作品の真骨頂は歴史小説、それも歴史の隅に葬り去られた真実や無名の人々を掘り起こした紙碑と自ら呼んだ一連の作品であった。
先生を慕って集る後進の育成に当り劇作研究の二十六日会、小説研究の新鷹会を主宰した。昭和三十八年六月十一日七十九歳で他界するまで、おびただしい数の長篇、短篇、百篇を越える戯曲それに紙碑と唱える著作がある。
「生きるとは、生きる価値を見つけることだ」
最後の病床で、先生は言い残された。
少年のころ先生が働いていた横浜の旧ドック跡に一生を人のために費し、無私を貫き通した先生を記念して、多くの人々の助力の下にこの文学碑を建てた。
昭和六十年十月十七日   門弟代表 村上元三」 

 

(記念碑は長谷川伸が若い頃働いていた横浜造船ドックの近くにあります)

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