No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

昔から、横浜も
いろいろ記念日を探し出してはお祭りをしていたようです。
特に戦後の初期は横浜復興のために、様々なお祝い事が開催されました。
日米和親条約(神奈川条約)調印百周年にあたる記念式典「開国百年祭記念式典」が1954年(昭和29年)4月の今日、横浜公園内のフライヤージム(体育館)で開催されました。
またこれを記念して史跡11ヶ所の石柱と開港広場に和親条約記念碑が建てられました。
他に井伊掃部頭銅像復元の除幕式、市内で日米交流の展示会等が開催されました。

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中央左のかまぼこ型ドームがフライヤージム。当時右の市役所はまだありません。

記念式典「開国百年祭記念式典」の報道映画

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http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/kaikokufesta.wvx
幕末最初に外国と交渉し、1854年3月31日(嘉永7年甲寅3月3日)に外交文書を取り交わしたのが「日米和親条約(神奈川条約)」です。
日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーでした。
この条約締結で「開港」が決まりました。
「開港」決定は「日米修好通商条約」他五カ国条約です。
(参考)
「3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る」

この記念式典で横浜開港の恩人として戦前評価の低かった幕末明治の人物が顕彰されます。例えば、
国内初の新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力した佐藤政養や
数学の素養を持った思想家で公武合体論と開国論を説いた洋学者、佐久間象山
※野毛に記念碑が建っています。「佐久間象山と横浜」は改めて。

「幕末三俊」と呼ばれた幕末の外交官、岩瀬忠震らです。
皮肉にも岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた井伊直弼も戦前の評価は散々でした。
この式典で改めて井伊掃部頭銅像が復元されました。
(井伊直弼のエピソードも面白ので別な機会にご紹介します)

1954年(昭和29年)4月「開国百年祭」に際し建てられた碑が12あります。
この12碑は戦後最初のまとめて建てられた「記念碑」です。
目印は市民スポーツの父と呼ばれる当時の市長「平沼 亮三」のサインです。


1日米和親条約調印の地 記念碑(横浜市中区日本大通 開港ひろば)

2英一番館跡 記念碑(横浜市中区山下町シルクセンター前)

3吉田橋関門跡 記念碑(横浜市中区JR関内駅近く)

4神奈川運上所跡 記念碑(横浜市中区本町 神奈川県庁本庁舎敷地内)
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5横浜町会所跡 記念碑(横浜市中区本町 横浜開港記念会館敷地内)

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6神奈川奉行所跡 記念碑(横浜市西区紅葉ヶ丘(神奈川県立青少年センターホール前))

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7アメリカ領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区高島台 本覚寺)

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8フランス領事館跡 記念碑( 神奈川区神奈川本町 慶雲寺)

9オランダ領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区新町 神奈川通東公園)
(写真略)
10イギリス領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区青木町 浄滝寺)
浄滝寺 11外国宣教師宿舎跡 記念碑(横浜市神奈川本町 成仏寺)
(写真略)
12神奈川台場跡 記念碑(横浜市神奈川区星野町)

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ここで「開国」という用語を使っていますが、
正確には国際交易の始まりであって「鎖国」に対する「開国」という表現は、近年使わない<主張>が多く出ています。私もその考えを取り入れることにしました。

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