3月18日の続編ですが今日は公園ではなく
ベイスターズの本拠地「ハマスタ」とベイスターズについてです。
1978年(昭和53年)4月の今日、老朽化した横浜公園平和野球場に代わって新球場「横浜スタジアム」で横浜大洋が開幕試合を行いました。
「爆弾低気圧」のため、奇しくも開幕戦が34年前と一緒になりましたが、さあ試合結果は??
1978年は横浜が巨人を逆転で破り新球場オープンを飾りました。
「横浜スタジアム」建設は全て異例づくめでした。
スタジアム完成の10年前、当時の横浜市長(飛鳥田一雄)はプロ野球仕様の「スタジアム」を建設し球団を誘致したい、と記者発表します。
しかし、計画は絵に描いた餅のように難関ばかりで風前の灯でした。
横浜公園の地主は大蔵省(財務省)のため、プロ野球のような娯楽興行には難色を示します。公園のルールを決める建設省は構造物建設の制限事項(公園法)を理由に大型構造物の設置は無理と判断します。建設資金はどうするんだ!地元経済界も困惑気味。
プロ野球というが、肝心のどのチームが横浜に移ってくるのか?
ライブドアでもDeNAオーナー契約でも大騒ぎになりましたが、プロ野球を地元に持ってくるのはそう簡単なことではありません。
市役所内でも側近中の側近含め殆ど反対、神奈川県警も警備に責任が持てないと難色を示す逆風の状況でした。
さらにスタジアム建設が決定してから完成予定期まで1年という当時では考えられない短期間での突貫工事、横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している状態でした。
1977年の航空写真、右に建物が並んでいるのが見えます。 |
建ぺい率6.965%には見えませんが 建ったので良しとしましょう。
|
この横浜スタジアム誕生は、何人かの情熱がなければ実現しなかっただろうといわれています。言い出したのは自らもアマチュア野球チーム、球場まで作ってしまった男、共栄社の山口久像(初代横浜スタジアム社長)。
当時、野球には全く関心も興味も無かった若葉運輸の鶴岡博(現横浜スタジアム社長)もミイラ取りがミイラになってしまう。青年会議所の理事長として資金集めに奔走します。地元の電波メディア(TVK)設立に奔走していた山上貞(神奈川新聞からTVK専務)も横浜にプロ野球という『コンテンツ』の重要性をいち早く感じ取り、彼らが地元の意欲を形にしていきました。
もちろん、国土計画の堤義明、(大洋球団オーナー)中部新次郎といった核になる人物を忘れてはいけませんが、オイルショック後であり、ロッキード事件があり政財界低迷の時期に夢を紡いだ人たちに敬意を表します。
スタジアムは当時日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物としても注目を浴びました。この構想は西武の堤義明が温めていたプランをベースに設計されたそうです。
(とにかくすごい勢いのある時代だったようです。記録を読めば読むほど色々な難関を乗り越え実現したプロジェクトでした)
内容とは直接関係ありません。1998年の夏です。混んでますね。 |
さて、昭和53年の4月4日は夕方から小雨がパラツキ、7時頃には一時期本降りになり試合が中断されるという状況でしたが、超満員の観客が見守る中、みごと横浜大洋が逆転勝利を収めます。この年の順位は64勝57敗9分の4位、優勝は(広岡)ヤクルトでした。横浜が優勝するのは1998年まで待たなければなりませんでした。
前のハチマキ風の方、故立川談志さんです。 |
(余談)
1948年(昭和23年)8月17日 、 日本プロ野球初の夜間試合(ナイトゲーム)が、横浜公園平和野球場(ルー・ゲーリッグスタジアム)で開催されました。
カードは読売ジャイアンツ VS 中日ドラゴンズで試合は3対2で中日が勝利しました。
ジャイアンツは、横浜の初物に弱い?のかもしれません。