No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

ブリュターニュ生まれのフランス人青年が、
滞在地日本の横浜弁天通にある骨董品店の看板娘に恋をします。
娘の名は「三谷はな(おはなさん)」16歳でした。
彼の名はマルセル、居留地警護のために本国から来た軍人のため、いずれ別れが待っている運命でしたが、二人は刹那の思いを燃やします。
数ヶ月間の恋でした。
この出会いから別れまでの物語を
同僚の著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバールが、親友マルセルの恋として描いたのが『絵のように美しい日本』(抄訳『おはなさんの恋』有隣堂刊)です。

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著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバール(1845〜1928)は
極東勤務の一環として1874年(明治7年)から計6ヶ月横浜に滞在しました。
この間のジャポン経験を同僚マルセル(J・A・ルヨー)の恋を通して描いたセミドキュメンタリーLe Japon pittoresque『絵のように美しい日本』は
1879年(明治12年)にパリで発刊され話題になります。

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日本語版には収録されていません

この本のポイントは、当時ヨーロッパで主流となっていた西洋文明優位主義や人種的偏見を持たず、日本の文化を外国の一つの異文化として捉え、的確にかつ公平に表現している点です。また、ラブストーリーに絡めて日本文化や当時のアイヌも紹介している点が特筆されます。

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女性のしかもアジアの女性に尊敬の目線すら感じる評価を与えている著者は本当に数ヶ月の日本滞在で取材(情報収集)したのでしょうか?
日本文化の表現、地理の理解は秀逸です。
もしそうだとしたら、彼は天才的な情報将校であったといえるでしょう。

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右が妹のおはな、左が姉のおさだ。なかなかの美人ですね。

幕末から明治にかけて、多くの欧米人が開国された「にっぽん」を訪れますが、多くの“男たち”が日本の娘の美しさに魅了されていきます。
「逝きし世の面影」(渡辺京二 著)第九章「女の位相」で
著者は多くの訪日外国人記録から丹念に“日本人女性像”を切り抜き評論を加えています。
“日本の女性は美しかった…”?

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マルセルの恋に戻りましょう。
巻頭にこの恋物語の主人公マルセル役となったブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県生まれのフランス人青年J・A・ルヨー海軍中尉に向けて献辞が添えられています。
ブルターニュ人は頑固で有名だったらしく、物語の中でもからかいのネタになっています。
我が知友 海軍中尉J・A・ルヨーへ
友よ、ぼくらがマラッカ海峡を通過した日のことを覚えていますか。ひどい猛暑で頭がくらくらしたことなど、あらためて添えるものではありませんね。(中略)
ときには夢多き多感な青年らしく、なにかにつけてすぐにぼくの部屋を訪れ、二人でよく日本の話しに興じたものでした。ときにはキャビンのドアと船底の竜骨のあいだに、雨水の小さな湖ができて、船が揺れる度にミニュチュアの波が足元を洗い、どこからまぎれこんだのか、白太のおが屑までが寄せては返していたものです。ぼくらの所在ない空想にかかるとそんなものさえ敵対するミニ艦隊に見えました。(中略)
「いかがですか、航海中の出来事を書きとめておいては?」と、なにかの折にきみにそう勧められたことがありましたね。
「それもそうだね」
ぼくがこの本の1ページ目を書いたのは、この時でした。(後略)

村岡正明抄訳『おはなさんの恋-横浜弁天通り1875年』有隣堂刊より抜粋

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自作マップ

(恋多きルヨー)
当時、おはなさんに恋する海軍中尉J・A・ルヨーは著者デュバールをして「海軍の学問界ホープ」と言わせた秀才で、帰国後は工学の道に進み海軍兵学校で造船工学を指導しますが、37歳の若さで亡くなります。

(デュバールの略年譜)
一方デュバールは
1845年8月28日フランス、現在のブルゴーニュ地域圏コート・ドール県のジュヴレ・シャンベルタン(Gevrey-Chambertin)に生まれました。
この地名だけでワイン好きの方であれば幾つか銘柄が出てくるでしょう。
ブルゴーニュの中でも有名なワイン生産地です。
大学卒業後海軍に入り
1868年〜数年仏領セネガルに主計補佐官として赴任しました。
1873年に主計大尉として日本中国海域の哨戒艇であるデクレア号に乗り
1874年9月に長崎港に上陸しすぐに上海に向かい11月まで駐留します。
任務を終え、長崎経由横浜港に12月6日に入港します。
1875年4月2日まで横浜市内に駐留し翌日の4月3日に横浜を出港、上海勤務に向かいます。(途中 神戸に寄港し京都大阪などを見学)し5月5日に上海に到着します。約5ヶ月の勤務を終え10月に横浜に戻り、一ヶ月滞在し最後の日本での生活を体験し本国フランスに帰国します。
その後幾つかの植民地の行政官等を歴任し、最後はマルセイユで海軍の副長官を務めました。
1877年に創設された「Société de géographie de Marseille(マルセイユ地理学会)」に所属し様々な活動を行い83歳で亡くなったそうです。
※一部フランス語の本人訳なので役職等不正確かもしれません。

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余談です。高級ブランドでございます。

(歴史的背景)
1863年(文久3年)下関事件をきっかけに英仏両国が居留地の自国民保護のための軍隊を駐留します。フランス軍が山手186番地に駐屯し、遅れてイギリス軍は山手116番地に駐屯します。英仏合わせて3,000人を超える軍隊が山手に駐留することになります。その後、明治維新となり新政府との外交交渉の過程で日本政府が少しずつ居留地の安全保障の役割を担うようになりますが依然英仏軍の駐留状態(治外法権)は変わりませんでした。
岩倉具視が再三英国と交渉に当たりますが“時期尚早”として拒否されます。
1871年(明治4年)岩倉使節団がアメリカ経由欧州に向かい、

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横浜港を出る岩倉一行、象の鼻から母船に向かった様子

英国と仏国に駐屯軍撤退要求をしますが“拒否”されますが…。
英仏とも自国の事情もあり1875年(明治8年)3月をもって撤退することを日本政府に通告します。その撤退要員として
デュバール達の艦船が日本に派遣された(と思われます)。
撤退時、送別の式典が行われたり、英仏の軍人たちとの商品交換が盛んに行われたり、現場レベルでは別れ(撤退)を惜しんだようです。
ある意味
日本の独立の第一歩になるのですが、
この布告がもう少し遅れたら
二人の恋の物語はどうなったのでしょうか。

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