1930年(昭和5年)の今日は、
黄金町を起点に三浦半島へ路線を展開する「湘南電気鉄道」の一部が完成した日です。
湘南電気鉄道、元祖「湘南電車」の登場です。
黄金町から浦賀まで、途中金沢八景から六浦、新逗子を結ぶ現在の京浜急行の南路線の完成です。
当初は全く別会社としてこの計画が始まりました。
※開通は4日後の4月1日ですが、この4月1日は話題満載一日なので、路線工事竣工の日をネタにしました。
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三浦半島を現したタイルの柱です。湘南進出を記念して?でしょうか。 |
写真の「日ノ出町」駅はこの時、まだ開業しておりません!
1931年(昭和6年)12月26日に京浜電気鉄道と結ばれます。
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京急の赤ボディです。 |
今日の話しは、二つの鉄道会社が相互乗り入れをするかしないか、事業の分かれ目が現在も地図上に残っているというお話です。余裕があれば波瀾万丈の鉄道会社の国取り物語をご紹介したいところですが【番外編】の機会に譲ることとします。
さわりを少々。
日本の鉄道網は多くの夢多き実業家の挑戦と競争、M&Aを繰り返しながら合従連衡の歴史を歩んできました。
最初は思い思いの線路幅で使用する電車の規格もバラバラの状態で他の会社と競争しながら路線設計が行われてきました。現在、品川(泉岳寺)を起点に三浦半島まで走る京浜急行電鉄は、元々東京と横浜を結ぶ大師鉄道を母体に生まれた「京浜電気鉄道」という会社で、帝都東京の奥深くまで進出する計画を持っていました。
南方面は、黄金町から浦賀を結ぶ「湘南電気鉄道」が新規事業を展開しようとしていました。ところが状況の変化が、若干ライバル関係にあった二社を結びつけます。
関東大震災のために事業計画が行き詰まった「湘南電気鉄道」を「京浜電気鉄道」が事業支援をします。それでも基本は別会社ですから「湘南電気鉄道」は浦賀から桜木町へ路線を設計し土地も確保します。
その名残が現在も地図に残っています。
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川沿いに二本の桜木町に向かう道が残っています |
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明治にはありません |
最終的に、この二つの路線は相互乗り入れを決定し、1931年(昭和6年)12月26日日ノ出町で繋がります。
現代では基本規格が整理されていますので相互乗り入れができるようになりましたが当時は違ったので大変だったと思います。これによって、現在の京浜急行電鉄の路線原型が完成します。京浜急行の帝都進出は都営地下鉄・京成電鉄との相互乗り入れで実現し関東を縦断することで実現しています。
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かつての計画では逗子線と久里浜線が繋がるイメージ |
野毛を歩いていると緩やかなカーブのある道があることに気がつきますが、そこが元々鉄道の敷地だったことに気がつくことはありません。計画変更から90年近くなりますが、歴史の名残を感じながら千鳥足で飲み歩く野毛界隈の愉しみもまたオツなものでしょう。
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これがあるから迷う? |
京浜急行日ノ出町、野毛山トンネルをめぐる謎を徹底的に糾明したサイトです。