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No.86 3月26日 老松小学校の悪童

1898年(明治31年)の今日、
日本郵船の船長の長男として横浜市伊勢町に生まれた昭和の怪僧今東光は、生涯破天荒の人生を歩みました。
彼が一時期通った「老松小学校」時代には同級生で愛知県から養子として横浜に来ていた尾崎士郎(「人生劇場」で有目な作家)をいじめて尾崎は郷里に逃げ帰った(と自伝に書かれています)そうです。
また、転居先の大阪関西学院中学時代には稲垣足穂を殴る蹴るでいじめていたと言いますからかなりの悪童だったようです。
(中学は二校退学、放校となります)
今東光の青春時代、1910年代から20年代は個性的で魅力ある人物が育った時代です。
彼はこの時代に、文学、絵画、演劇の世界で多くの仲間達と才能をぶつけ合いました。

恐らく「今東光」を映像として見たことのある世代は50代以上でしょう。
瀬戸内寂聴の師僧(彼女もかなり老女)、谷崎潤一郎の秘書、川端康成とは今東光がモグリ帝大生で知り合った親友の一人といえば少しはイメージできるでしょうか?
マルチタレント今東光の実像を伝えることはかなり難しい作業です。
悪ガキ時代は破天荒人生第二幕に続きます。関西から東京に移り、絵画を志しますが挫折、文学の道に新しい自分を探します。
http://hon.bunshun.jp/articles/-/592
http://ja.wikipedia.org/wiki/今東光
驚いたのが先日作品展を見て感動した村山知義と間宮茂輔、サトウハチロー、今東光らが1925年に同人誌「文党」を創刊し、その年の5月6日にプラカードをぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭を練り歩くというアートパフォーマンスを行っていたことです。

村山知義「すべての僕が沸騰する」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2012/390.html
1910年代から20年代を中心に彼とともに活動、親交のあった人物を列挙します。
破天荒な人生ですが、多くの人に信頼された人物でした。
東郷青児、関根正二、生田長江、佐藤春夫、宇野千代、室生犀星、谷崎潤一郎(生涯の師と仰ぐ)、川端康成、鈴木彦次郎、芥川龍之介(彼の自殺をキッカケに出家を志す)、阪東妻三郎、菊池寛(後に訣別)、中村武羅夫、片岡鉄兵、鈴木彦次郎、鳥海青児、河上徹太郎、伊藤整、高見順、山田耕筰、和田完二、梶山季之、柴田錬三郎(今のアドバイスが記者から小説家になるきっかけとなる)、出口王仁三郎、井上ひさし、黒岩重吾、田中小実昌、田辺聖子、陳舜臣、戸川昌子、野坂昭如、山口瞳、藤本義一、吉行淳之介、安岡章太郎 等々まだまだ続きます。

芥川龍之介死後3年の1930年金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号します。
今東光の破天荒人生第三幕の幕開きです。
1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰します。
宗教家として、小説家として勢力的に活動します。
大阪府八尾にある檀家が30数軒の貧乏寺に住職として赴任し第三幕が始まります。河内人の気質、風土を愛し、「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、一連の河内八尾を舞台にした作品を連作します。「河内カルメン」「こつまなんきん」「河内ぞろ」「河内風土記」等々
なかでも映画「悪名」の空前のヒットは
八尾をがらの悪いところと紹介したということで 今だ地元には複雑な気持ちが残っているそうですが第1回八尾市文化賞を受賞しています。
さらに彼は、政治の世界に飛び込み、一期参議院議員となり三足のわらじを履きます。
そして最終章、晩年は闘病と天台宗の布教につとめます。
「比叡山・東塔の再建(さいこん)、中尊寺諸堂の整備、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、あらたな時代に向けての、天台教学改革の提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。」(Wikipedia)
このような豪快なおやじがもう生まれない時代になってしまったのでしょうか?

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