今日は私の街歩きのガイド時に定番話題となっている
<電柱>の話を改めて絵葉書から紹介しましょう。
道路には電柱が建っているが、大きく電力を運ぶ電力柱、通信回線を張り巡らす電信柱がある。私たちは日常<電柱>か<電信柱>と呼び、殆ど電力柱とは呼びません。
この<電力柱><電信柱>かつては別々に建っていました。
今も分かれて建っている道路もあり、街歩きの楽しみの一つです。
「電信の父」といわれた寺島宗則が明治維新早々、横濱で最初に事業化した電信は、瞬く間に全国に広がります。
電気よりも早く普及した電信そして電信のために設置された「電信柱(でんしんばしら)」。
日本の情報インフラのスタートラインといっても過言ではありません。
今日は、この電信柱から「横濱風景」を読解いてみます。
まずはクイズから行きましょう!
電信柱
電力柱
なんと読むでしょうか?それぞれの役割は?
電信柱は「でんしんばしら」ごく一般的に使用されていますね。
電力柱は?
「でんりょくちゅう」と読みます。
役割は電信柱が「電信」で電力柱は「送電」のための柱です。
歴史は「電信」柱が古く 電気→「電力」柱が約二十年遅く巷に設置されました。
現在は電信柱と電力柱が合体し「共用柱」として使用されているケースが多くなりました。
(風景としての横濱電柱)
横浜は“戦災”と“震災”で多くの記録を失いました。
残されている記録から “横浜の電柱”を読み解いていきます。
戦前の風景を読解くには「写真」がベストですが、横浜は冒頭にも書いたように“戦災”と“震災”で多くの記録を失ってしまいました。そこで重要な記録資料として役割が見直されてきたのが「絵葉書」です。
「絵葉書」に描かれた横濱風景で“電信柱”の存在は脇役も脇役、殆ど注目したコレクターはいなかったのではないでしょうか。
改めて、「絵葉書」から風景を読み込もうとすると
電柱が気になり始めました。
下記のサイトで横浜の戦前風景に出会えます。
都市発展記念館
手元にある「絵葉書」から横浜の電信柱風景を観察してみましょう。
横浜市立図書館 絵葉書「Yokohama’s Memory」
→電信柱の視点で観てみましょう。
気になって気になってしかたなくなりますよ!!
この他、建築物は当然ですが服装、乗り物など 見始めると不思議探検が始まります。
(電信電力の歴史)
明治大正の電信柱風景を読み解く前に、簡単な電信・電力の歴史を振り返ってみます。
●印は<電力関係> ■横浜関係
1869年(明治2年)
■英国の通信技師を招き横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設。
ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)による通信が始まる。
→「横浜の寺島」
1871年(明治4年)電信機器初の国産化
1878年(明治11年)国産電話機誕生(2台)
1886年(明治19年)
●日本初の電気事業会社(東京電燈)が開業
1887年(明治20年)
●日本初の火力発電所が完成
1889年(明治22年)からは一般利用が始まった。
1890年(明治23年)
電信線電話線建設条例 制定
→急速な普及で、道路専有による交通障害が多発。
→道路を管轄する内務省と逓信省の確執
■横浜〜東京で電話・電報業務サービス開始
1892年(明治25年)
●日本初の水力発電所が京都で完成。
1895年(明治28年)2月1日
●日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道が開業。
1899年(明治32年)わが国長距離通話のはじめ(東京〜大阪間)
全国の電話加入者数が1万人を超えた。
1903年(明治36年)12月30日 横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所
1904年(明治37年)7月15日
●■横浜で最初の電気鉄道(路面電車)運行開始。
No.417 Tram Tin Tim Street Car
1913年(大正2年)
●電力の動力需要が照明用の需要を超える。
1919年(大正8年)道路法で電柱の優遇専有が撤廃。
→逓信省 猛反発
1926年(昭和元年)日本初の自動交換方式開始
1942年(昭和17年)内務省・逓信省が協定を結び
電柱問題が解消。→といっても戦中だよね!!
(絵解き絵葉書)
明治大正期、電信柱と電力柱は別々だったそうです。
電信・電話は大正期まで回線数分だけ“電信線”が必要でした。
電話回線を一本のコードに集約する技術登場にはもう少し時間がかかります。
交換所で“交換手”が掛かってきた電話先と話して繋いでほしい相手に“手動”で繋ぐ時代が続きます。
ということは、電信柱の線数でおおよその電話回線規模が推察でき、街の規模の指標の一つになります。
また、「電信柱」の回線数の変化で街の発展史を推論することもできます。
資料を調べてみると、
電信柱の材質も最初は普通の木製柱で、材質は杉・桜・ヒノキを使用、風雨で7から8年しか持たなかったそうです。その後防腐剤入りが導入され、耐用年数が20年に延びます。
コンクリート柱となるのは戦後になります。
電柱の交換作業も大変だったようですが、現在行われている”電柱地下埋設”の考えが中々進まなかったため莫大なコストをかけていました。
今からすれば 欧米の仕組みを導入していた日本がなぜ電柱埋設を推進しなかったのでしょうか?
断片的資料ですが、ここにも縦割り行政の壁があったようです。
電信柱を道路に設置するための管理権争奪が当時の逓信省と内務省で壮絶な戦いがありました。
情報インフラは全てに有用なものなんですが。
さらに「電信柱」に続いて「電力柱」が登場します。電力の一般家庭への普及は、大正期に進みますが、道路占有の視点では「電気鉄道網」の推進と電信柱の増大から電気・電信の共有化が議論され関東大震災以降 少しずつ進行していったようです。
どこかで 昔の情景に出合ったなら 「でんしんばしら」にも注目してみてください。
現在でも電信専用の<電信柱>のある通りもありますよ!
#電信柱 #絵葉書の風景
2016年11月加筆修正
明治時代の写真に、1本の電信柱にものすごい数の電線がとおっているのがいつも不思議でした。こちらの解説でよく分かりました。電力柱と電信柱、発展の歴史、時代の空気が移し込まれていることに深く感銘しております。時間の流れというものは変化の異名なのだと感じました。いろいろ教えていただきありがとうございました。