時に生まれ育った街の歴史に人は大きく左右されます。
「昭和20年5月29日、横浜一斉空襲の朝のこと、私は十二才だった。・・・」と自伝的エッセイ「ベラルーシの林檎」に綴られたこの街での暮らしは女優岸恵子にどのような影響を与えたのでしょうか?
戦争の傷跡が癒えないこの国(横浜)で1951年(昭和26年)の今日、岸恵子18歳のデビュー作「わが家は楽し」(松竹大船)が公開されました。
松竹で中村登監督の出世作となった『我が家は樂し』 は笠智衆、山田五十鈴、高峰秀子、岸恵子、佐田啓二など当時の豪華俳優が登場しています。
1925年(大正14年)操業の森永製菓鶴見工場(実際に工場でロケ)で課長を勤める平凡でどちらかといえばうだつの上がらない「笠智衆」とその家族のある日常を切り取った秀作です。
この作品で次女役を演じた岸 恵子は 通称「平沼高女」現在の神奈川県立横浜平沼高等学校時代にスカウトされこの作品を撮ります。
もともとは川端康成を耽読し作家志望だった彼女は、大学入学までという条件だったそうですが、この作品がキッカケで映画界に身を投じることになります。
たまたま大船撮影所を見学に行ってスカウトされたということですから人生解りません。
看板女優のフランス人の映画監督との電撃結婚のときの立会人は女優になってから親交のあった川端康成でした。作家の夢は忘れず、「巴里の空はあかね雲」(新潮社刊)で文芸大賞エッセイ賞を、「ベラルーシの林檎」(朝日新聞社 )では日本エッセイストクラブ賞を受賞します。
夢をあきらめない根性は、おそらく母校「平沼高女」で学んだのではないでしょうか。
竹腰美代子(美容研究家)(1930年10月5日 – 2001年3月1日)学年は32年組と一緒でした。
岸恵子(松竹女優)(1932年8月11日〜 )
篠崎 孝子(有隣堂元社長)(1932年11月〜)
小園蓉子(女優)(1932年10月16日〜 )
草笛 光子(女優)(1933年10月22日〜 )
日比野恵子(1952年(昭和27年)第3回ミス日本、東宝女優)(1932年〜?)
以上、全て一年位前後してますが「平沼高女」の猛女たちです。
1950年(卒業直前)に男女共学となってもまだ女学校の伝統が闊歩していた時代の卒業でした。そう簡単になれない女優がいっぺんに輩出することは「平沼高女」始まって以来の快挙といえるでしょう。
(余談)
「ベラルーシの林檎」出版に関して彼女にインタビューをしたとき、「日本語は縦書きだからこそ美しい。横書きは日本語ではありません。横書きの雑誌には出ません」
と冒頭に釘をさされ会場のロイヤルパークのバーが凍りつき絶句した経験があります。(実は横書きの冊子だったのです)でもすばらしくきどらない良い方でした。
(余談)
元日本テレビアナウンサー羽鳥慎一も平沼出身です。