人に誕生日、企業に創業記念日があるように自治体にも誕生日があります。
慶応4年の今日、神奈川県庁の立庁日です。
もしかしたら横浜県庁立庁日になっていたかもしれません。
県庁と横浜地検(一時期横浜役所があった場所) |
【混乱の要因1】二つの暦
幕末から明治にかけての資料には「暦」が二つあるのでこの辺りを調べようとすると素人は時々苦労します。
(年号の複雑さ)
特に1868年が旧暦新暦交錯していて、一番ややこしい年(ややこしいねん)としゃれを言っている場合ではありません。
1868年(慶応3年12月7日〜明治元年11月8日)の一年間に3回年号が変わります。
さらに1868年の途中、慶応4年4月29日(晦日)の翌日が慶応4年の5月1日ではなく閏4月が設定されたためなお複雑になります。
徳川幕府に終わりを告げた「大政奉還」は慶応3年10月ですが
元号の変更は慶応4年の9月8日に行われ明治元年9月8日に変わります。
ところが明治政府が「慶応四年をもって明治元年とする」という令を出します。
さかのぼって慶応四年は無い!明治とせよ!と宣言する訳ですから現場は混乱したでしょうね。
横浜裁判所への辞令 |
【混乱の要因2】名称の猫の目変更 もしかしたら横浜県に
幕末、外国に開国を約束した港は「神奈川湊」(東神奈川)でしたが、幕府は江戸に近いことを理由になかば強引に「横浜は神奈川の一部である」として港を開きます。実際、横浜は神奈川と完全独立(孤立)した場所でした。幕府は外務担当の神奈川運上所を関内(現在の県庁)に置き、内務担当の神奈川奉行所(現在の紅葉ヶ丘)を関外にそれぞれ行政機関として設置します。
神奈川運上所は「慶応の大火」で焼失し(現在の横浜地裁に)再建され横浜役所と改名します。
そして大政奉還、政権交代します。新政府は慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に神奈川運上所改め横浜役所と神奈川奉行所を(GHQのように)接収します。横浜役所を横浜裁判所、神奈川奉行所を戸部裁判所と名称変更します。(裁判所と言っても現在のような裁判所ではなく行政府の役割です)
この日をもって神奈川県は神奈川県庁立庁日としますが西暦と旧暦をごちゃまでにした設定になっています。
この時期、一時的ですが横浜県という名称も使われていました。横浜裁判所と戸部裁判所は一ヶ月後新しく「神奈川裁判所」に統合されます。下部組織として戸部裁判所が内務、横浜裁判所が外務を担当することになります。
神奈川県立青少年センター(前川国男設計) |
その二ヶ月後神奈川裁判所」は「神奈川府」に、三ヶ月後には「神奈川県」となり現在に至るという次第です。たった3ヶ月ですが「横浜県」時代があったのです。
ではどうして神奈川県になったか?
初代知事「東久世通禧」は歴史的に県内で最も大きな港なので「神奈川」としたと記録していますが、実際は幕末期に各国と契約した「修好条約」の開港する港が「神奈川湊」であったため神奈川としたのが実情ではないでしょうか?
正直な所、真相は分かりません。