No.72 3月12日 シルクセンター完成式典挙行

戦後横浜は、
戦災(横浜大空襲)と米軍接収により都市機能が疲弊していました。
折しも開港100周年(1959年)のタイミングに、復興のシンボルとして「生糸貿易の振興」のために神奈川県と横浜市は共同でシルクセンターの設立を提唱しました。
そして官民協力のもと1959年(昭和34年)のこの日、完成し記念式典が行われました。

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シルクセンターの建つ中区山下町1番地は、かつて居留地1番地でした。
ここに開港後いち早く商館を建てたのが極東貿易の最大手イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会です。
外資の日本第一号で「英一番館」と呼ばれていました。因みに長崎に進出したジャーディン・マセソン商会の代理店が坂本龍馬の支援者グラバーです。

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明治維新直後にジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任したのが、
幕末福井藩を脱藩し英国に密航した「吉田 健三」です。
この人物、豪快なビジネスマンで支店長時代に日本政府を相手にビッグビジネスを幾つも成功させます。三年で商会を辞め、高額の慰労金を元手に独立し学校、新聞社の事業、ビールやフランネルの輸入で大成功します。
自由民権運動を支援し東京を追放されたこともあります。
横浜の太田町に豪邸を持ち久保山に浄土真宗「吉上山 光明寺」というお寺を明治21年に菩提寺として建立します。
この「吉上山 光明寺」の書院は小田原御用邸の常宮御座所を移築したもので国登録有形文化財です。
吉田健三の養嗣子となった人物が「茂」で、後の外務大臣、総理大臣となった吉田茂です。
吉田茂は父の死後大磯に移りますが、
戸太町立太田学校(太田小学校)に通ったハマっ子時代があります。

話しが横道にそれました。
ジャーディン・マセソン商会の土地は、その後横浜市の土地となりシルクセンターが建ちます。

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築港局下がジャーディンマセソン商会

このシルクセンターを設計した建築家は神奈川県立近代美術館、神奈川県庁新館を設計した「坂倉準三」です。(新宿西口駅前広場の設計他多数)

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丹下健三、前川国男、吉阪隆正と並び世界的建築家ル・コルビュジエのアトリエ出身の四天王の一人です。

シルクセンターそのものは、経営的には決して成功したとはいえません。
様々な苦難の道を歩みます。生糸輸出産業そのものが衰退し、市場が消滅します。センターに併設された「ホテル」も客室にスプリンクラー設置を義務づける建築基準法改正に適応できず廃業し現在は客室を活かしたSOHOオフィスとして稼働しています。
2月25日 絹と女と桑畑も参照

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神奈川県立近代美術館鎌倉館

近代美術館は、2016年(平成28年)3月末の土地貸借契約満了をもって閉館案が出て現在存続を巡り議論が続いています。土地所有権が鶴岡八幡宮にあり、神奈川県と土地の貸借契約を結んでいるそうです。鶴岡八幡宮側は、継続を希望しているらしい?ようですが
2016年3月末の土地貸借契約満了をもって閉館の見通しとなっています。

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