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No.71 3月11日 内村鑑三と関東学院

まず 311に際し亡くなられた方のご冥福と被災された方々へのお見舞いを改めて申し上げます。私たちには立ち上がる力があります。
しぶとくずぶとく再生のために生きましょう。

今日の暦は、1921年(大正10年)のこの日、宗教家であり思想家、社会運動家であった内村鑑三が、横浜を訪れたエピソードを紹介します。

 
内村鑑三(北方資料室)

1921年(大正10年)頃がどのような社会情勢の中にあったのか?
1919年に人類史上はじめての世界大戦がドイツの降伏により終わります。
1914年に始まった大戦では、欧州だけではなくアジア、アフリカ。太平洋でも列強の植民地、租界等で戦争が行われ多くの犠牲がでました。この時、日本は日英同盟に基づきイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国側に立ち、皮肉にも1914年8月15日ドイツに勧告を行い23日にドイツに宣戦布告(参戦)することになります。
主な戦場は中国大陸でしたが、地中海にも艦船を出しドイツ海軍と戦闘を行っています。
日本は戦勝国側となり、戦勝賠償の一つとしてドイツの大型汽船「カツプ・フイニステル号」(後の大洋丸)を貰い受けます。15,000t級サイズの汽船は当時日本最大級で、太平洋航路就航のために横浜港にその姿を見せたときは、多くの見学者が訪れました。


その見学者の一人が晩年の内村鑑三(60歳)で、1921年3月11日に横浜を訪れますが、ただ物見遊山に横浜へ行くのももったいないと考えたのか教え子が初代校長として奮闘している学校を見学に出向きます。
内村が訪れたのが1919年三春台に開校した“話題の学校”「私立中学関東学院」の新校舎です。
日記には野毛山のつづきとありますがどのルートから学校を訪れたかは不明です。
(桜木町からだと野毛山経由が近い)

野毛山から関東学院を望む

話題の学校”というのは、当時の宗教教育への圧力に抵抗したからです。

関東学院設立の少し前の1899年8月3日発令の「文部省訓令第12号」という宗教教育に一定の圧力をかけることができる法令に対し、関東学院は認可校の特権を敢えて棄てます。
反骨の内村鑑三としては、良くやった!
とエールを送ったのではないでしょうか。
この時、第一回入学式に初代学院長坂田祐が語った「Be a man and serve the world(人になれ、奉仕せよ)」はその後の関東学院の校訓となります。

最後に311に因んだ話を一つ。
関東大震災から半年後の1924年3月10日、関東学院中学部第一回生の卒業式が行われました。その時初代学院長坂田祐は卒業生に訓示を贈ります。
「貧乏になってもよい、この世の事業に失敗してもよい、人生観の基礎を確立して価値ある生涯を送らん事を淳々と説かれ、真の人、真の奉仕者こそ、人生の真の勇者である事を強調し、若き卒業生の魂をゆすぶられた。」と記録されています。

震災後に建った関東学院中学校旧本館はJ.H.モーガン設計による名建築で、横浜市認定歴史的建造物となっています。

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