かつて横浜市電が走っていたエリア「横浜市電域」は、横浜が戦後成長の核(地域拠点)となったエリアです。
★市電の時代
横浜は幕末期に「開港場」から次第に拡張しながら現在の市域となります。
(横浜市の誕生)
1889年 5.40平方キロメートル
(第1次市域拡張)
1901年 24.80平方キロメートル
(第2次市域拡張)
1911年 36.71平方キロメートル
(第3次市域拡張)
1927年 133.88平方キロメートル
鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷、磯子の誕生
(第4次市域拡張)
1936年 168.02平方キロメートル
(第5次市域拡張)
1937年 173.18平方キロメートル
(第6次市域拡張)
1939年 400.97平方キロメートル
(埋立て増)
2011年 434.98平方キロメートル
横浜市域が誕生してから現在まで、なんと
80倍に拡大してきました。
★行政域と生活域
この間に、区が誕生し5区から始まって18区にまで増えています。
この市域はあくまで行政的な区分でしかありません。
生活圏は行政エリアとは異なったエリアで構成されています。
里山地域、川の流域といった区分です。
道(道路)も街道というエリア文化でとらえることができます。
ここでは
「横浜市電域」という行政区分とは異なるエリアを抽出し、このエリアの形成から市電廃止後の姿までを追って見ることにします。
★市の発展と鉄道網
明治早々から市民の足となった電気鉄道は、路面電車・ちんちん電車・市電・都電・府電、最近ではLRTまで長い歴史があります。
残念ながら 横浜市を含め多くの街からは既に消えてしまいましたが、私たちの生活に最も近い鉄道網です。
※現在 改めて路面電車に注目が集まっています。
次々と次世代型の路面電車が登場しています。
横浜市の発展と関係の深い路面電車は、既に形成されていた産業集積地を走ると同時に、新しい住宅地や繁華街を生むキッカケとなっていきます。
今や廃止されてしまった横浜市電ですが、
市電の走った地域「市電域」の歴史を追ってみるともう一つの横浜側面史が見えてきます。
★最盛期
まず最盛期の市電域を図にしてみました。
現在の鶴見区・神奈川区・西区・中区・保土ケ谷区・南区・磯子区
以上7区にまたがり1960年前後(昭和30年代前半)頃のピーク時には総延長が約52kmに及び、一日平均30万人を超える乗客が利用していました。
市電が路線地域の重要な市民の足だったことが分かります。
★時代区分
路面電車、横浜電気鉄道の歴史を簡単に紹介しましょう。
【創業期】明治37年〜
民間鉄道としてスタートし、最初の市電路線が創設されます。
その後、経営難で横浜市に譲渡され「横浜市電気局」が誕生します。
【復興期】大正12年〜
市電史最大の変化が関東大震災です。
震災で甚大な被害を受けた市電は路線の見直しを迫られます。
同時に、復興事業で道路、橋等の復旧も始まり、街の表情が変わりはじめます。
大正末期から昭和初期にかけて横浜市電が最も拡張した時代です。
最盛期の路線網はこの時期にほぼできあがりました。
【戦後期】昭和20年〜
終戦後横浜中心市街地は米軍の接収を受けますが、市電は市民の足として運行本数を回復し密度をさらに濃くしていきます。
【廃止期】昭和40年〜昭和47年
しかし、モータリゼーションの波は、路面電車の存在を危うくし、渋滞により正常なダイヤ運行も困難となります。
軌道を使わないトロリーバスも導入されますが、最終的に全面廃止が決定し開業から70年の歴史に幕を閉じます。
横浜市電の路線域は1930年(昭和5年)までに開業した路線がほぼ最盛期の9割を占めます。
その後、一部区間が結ばれることはありましたが、
拡張されることはありませんでした。