No.68 3月8日 禁酒の勧めに横浜バンド活躍

私、禁煙しましたが今だ禁酒にはほど遠い日常生活です。
痛飲で後悔しきり、禁酒にまで心が動きません。
そんな立場で紹介するのも何ですが、日本の禁酒運動は明治時代、横浜から始まりました。
日本の禁酒運動の強い後押しとなったのが三人のアメリカ人女性の来日でした。
Mary Greenleaf Clement Leavitt (1830–1912) 夫人、Jessie A. Ackermann(1857〜1951)女史らの活動です。中でも旅行家でジャーナリストだったAckermann女史の演説活動は日本人に響いたようです。
1890年(明治23年)の今日、「横浜一致教会」(現在の横浜海岸教会)で彼女は「禁酒」の勧めを演説しました。

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開港広場、開港資料館に隣接

最近、コンビニや居酒屋で未成年の飲酒禁止が厳格になったことをご存知ですか?
WHO勧告にようやく(日本にありがちな)重い腰を上げ始めた結果です。
日本は残念ながら未成年飲酒と児童ポルノに甘い国というレッテルが貼られています。
若干方法がせこい感じもしますが…。

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写真と内容は関係ありません

禁酒運動と女性参政権といえば、ドラマ「ボードウォーク・エンパイヤ」に描かれた1920年代の禁酒法時代が有名ですが、アメリカでの禁酒運動は19世紀後半から始まります。女性の地位向上運動(禁酒と参政権)として多くの女性活動家が生まれました。ベースにはプロテスタントの布教活動がありますが、単に宗教の枠に収まる話しではありませんでした。その中に、基督教婦人矯風会( Woman’s Christian Temperance Union (WCTU) )のメンバーAckermann女史がいました。
舞台を幕末明治維新の横浜に移します。
1873年(明治6年)横浜の居留地で外国人船員に向けて禁酒会が開催されます。
江戸時代、酒造りが酒株によって新規参入と製造量の面から規制されていた日本ではあまり禁酒に関心がありませんでした。飲酒による社会問題が生じてきたのは、日本政府が酒造の免許化(だれでも酒が造れる)と酒税徴収(戦費調達)を安易に行った以降のことです。

急激に高度数のアルコール飲料が普及すれば、飲酒による社会問題が生じるのは当たり前のことで、外国人が宗教上の理由だけで禁酒が日本に広まることはありませんが、すでに巷では飲酒問題が起っていました。
この頃、Yokohama Bund(Bandではありません)と呼ばれた青年たちがいました。アメリカ・オランダ改革派から派遣された宣教師、J・H・バラが1872年に創立した横浜一致教会(今の横浜海岸教会)に集った青年たちです。
※下記参照 彼らの布教プログラムの一つに『禁酒』がありました。
このYokohama Bundの日本人メンバーの一人に奥野 昌綱という日本人牧師がいました。
彼が日本人による禁酒会を横浜で1875年(明治8年)に初めて開催しますが、盛り上がらずすぐに解散します。
前にも触れたように1871年(明治4年)に新規免許料十両と免許税五両、販売額の五分に相当する酒税を支払えば、誰でも自由に清酒が造れることになります。それまで一般庶民は自宅で簡単に造るいわゆる「どぶろく」が飲酒スタイルでした。度数も低くしかも保存がききません。それが、清酒の登場で、一年中高アルコール飲料を大量摂取できるようになります。
しかも年齢制限がありませんでしたから、未成年に悪影響を及ぼしたことは当然の結果です。外で働く男達の飲酒によるDVも表面化してきました。
Ackermann女史は「横浜一致教会」でこの点を強く問題視し「禁酒」を訴えたのです。
このとき、奥野 昌綱牧師67歳、会場の一角でこの講演に耳を傾けていたかどうかは定かではありませんが、次第に高まりつつあった日本の禁酒運動拡大の大きな力となります。
また宗教を越えて、仏教会でも多くの禁酒会が全国で組織されます。
その後、未成年の飲酒禁止法案は10年に渡って提出され1922年(大正11年)第44回帝国議会でようやく可決制定されます。この法案を巡っては議場封鎖や小競り合いの末、強行採決されたという経緯があります。

※横浜バンド
バンドとは築堤・埠頭を意味する “Bund” に由来します。「外灘」「外国人の河岸」を意味し上海では外国人租界を表しました。
1859年10月、アメリカ改革長老派教会のJ.C.ヘボン夫妻と1859年11月に米国オランダ改革派教会のS.R.ブラウンが神奈川湊に、同じくオランダ改革派の1861年11月にJ・H・バラが横浜湊に来日します。当時日本はキリスト教が禁止されていたために租界(居留地)以外での伝道ができませんでした。彼らはまず、日本語を習得し英語や医学の塾を開き、多くの日本人青年を教育しました。この中心メンバーのことを横浜バンドと呼びます。

※3月10日は横浜海岸教会の創立記念日
横浜一致教会とは宗派を越えた教会という意味で、明治期、日本という異郷の地で宣教師たちは宗派を超えた教会を目指しました。現在の日本キリスト教会・横浜海岸教会です。
創設は1868年5月、この場所に石造りの小会堂が建設されました。1872年3月10日、J.H.バラによって篠崎桂之助以下9名の受洗が行なわれました。同日、既に他所で受洗していた2名を加え、11名で日本基督公会を設立し、バラが仮牧師となり、小川義綏が長老、仁村守三が執事に就任しました。この日が横浜海岸教会の創立記念日となっています。(横浜海岸教会HPより

※奥野 昌綱
「日本の牧師、横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。
1872年に奥野の女婿の友人小川義綏の誘いでヘボンの日本語教師になった。8ヶ月間ヘボンの助手として『和英語林集成』第二編の編集を手伝った。ヘボンが上海に出張すると、S.R.ブラウンを助けて、1872年に始まった文語訳聖書の翻訳に際して協力者になった。」

※明治時代は外国人女性も大活躍
イザベラ・バード
(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831〜1904)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治11年5月横浜に上陸し、東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)の中で「微笑みの国の物語」日本を描いた。
No.470 パーセプションギャップを読む

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エリザ・ルハマ・シドモア
(Eliza Ruhamah Scidmore,1856〜1928)は、米国の地理学者、文学博士、ジャーナリスト、写真家。女性として初めてアメリカ国立地理学協会の理事で、東洋研究の第一人者。横浜から運ばれた、ポトマック河畔の植桜に尽力したことで知られる親日家である。
エリザ・ルハマ・シドモアが執筆したナショナルジオグラフィックマガジン』1896年9月号で明治三陸地震津波を報じた記事”The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan”が、英語文献において、Tsunamiという語が使われた最古の例とされている。

このテーマは、課題が重層していてうまく整理されていません。継続して追跡、咀嚼したいと考えています。
ご容赦ください。

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