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No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

京浜急行線に「花月園駅」があります。
2010年までは競輪場がありました。
この「花月園」の名は東洋一の遊園地の名から来ました。
1914年(大正3年)に平岡廣高氏が開業し、
関東大震災を挟み18年間個人営業を続けましたが、個人経営の限界を迎え
1932年(昭和7年)の今日、新生「株式会社花月園」がスタートしました。

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鶴見花月園は数多くのエピソードを持つ横浜黄金時代の証です。
戦前の横浜がいかにベンチャー都市として成功していたかを物語る最高の事例がこの「花月園」でしょう。

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昭和30年代競輪場のころ
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昭和初期

横浜は関東大震災、戦災、進駐軍接収という三重苦を乗り越えてきましたが、その荒波の中「花月園」のような“横浜発の先取の文化”が消え去って行きました。
東洋一の遊園地「花月園」は公称10万坪(7万坪程度)の敷地に、
大観覧車(愛称はベティさん)、屋内スケートリンク、動物園、大ダンスホール、園内の鉄道、プールといった当時としては最大級、最新鋭の遊戯施設が設置されました。
フランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルにしたと云われています。
京浜電気鉄道(現在の京浜急行)はこの遊園地のために駅を建設しました。
「桃は西の岡山 東の綱島」と呼ばれたように『西の宝塚・東の花月園』と呼ばれました。
大成功すれば競合が現れるのは市場の原理です。
あらかわ遊園、谷津遊園、多摩川園、野毛山公園など遊園地が続出します。
しかも個人経営でした。

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近所に競合『三笠園』が確認できます。

次第にその勢いは衰えて行きます。
最終的には沿線に集客装置が欲しかった京浜電鉄と大日本麦酒が資本を出し株式会社化し経営を刷新します。放漫経営でも無く、破綻でもありませんでした。円満に経営譲渡が行われ、新生花月園が2月21日オープンします。
この劇的なエピソードが詰まった一冊が「鶴見花月園秘話」です。
この本からエピソードを二つ紹介しましょう。
「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう、こちゃ神奈川急いで保土ヶ谷へ』と『お江戸日本橋』にも唄われた鶴見宿の名物に米粉を使った「よねまんじゅう」がありました。

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明治5年に鉄道の開通し、宿場が廃れ姿を消します。
この「よねまんじゅう」を大正期に復活させたのが「花月園」の平岡廣高でした。
戦後花月園の閉園とともに姿を消しますが、
1982年(昭和57年)に地元菓子組合のもとで復活します。
京急鶴見駅近くの「清月」さんの「よねまんじゅう」を時々買います。
もう一つのエピソードは、
エリアナ・パブロワです。
1927年(昭和2年)鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ稽古場を開き、
妹のナテジタ・パブロワと共にクラシック・バレエを本格的に教授し始めたロシア人です。
パブロワ姉妹は、1922年(大正11年)に横浜で創設された露西亜舞踏劇協会の県知事の推薦で「花月園舞踏場」のダンス教師になります。
鎌倉七里ヶ浜のバレエスタジオは
妹ナテジタ・パブロワさんが1982年(昭和57年)に亡くなられるまで使われていました。

■No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

高校時代、学校の近くに斜面に建つ白亜の屋敷のスタジオに一度だけお邪魔したことがあります。
紆余曲折あり、記念館になった時期もありましたが
現在は関係のない方の個人宅で公開しておりませんので大変貴重な経験でした。

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