No.44 2月13日 熊田と土門

横浜で生まれた熊田 千佳慕と横浜に育った土門 拳は共にリアリズムを追い続けた二人でした。
転機は1981年(昭和56年)のこの日、熊田が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品した頃からです。
このボローニャ国際絵本原画展に入選し、フランスで「プチファーブル」と賞賛されるようになり“世界の熊田”の評価を得るようにまります。

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横浜駅西口から地下街を抜けて、浅間下に出て坂を上り脇道に入ると静か住宅街が広がっています。近くに学校があるためか昼過ぎには子供達が歩く姿を多く見かけます。
しばらく細い道筋を歩くとこんもり緑に囲まれた家が目に入ってきます。
熊田 千佳慕(本名 熊田 五郎)さんのご自宅兼アトリエがここにありました。
私が最後に熊田さんにお会いしたのはもう十数年前のことです。
熊田 千佳慕
をご覧ください。(以下敬称略)
熊田は1911年(明治44年)横浜が経済・文化の中心地だったころ、耳鼻科医の息子として関内住吉町に生まれます。何回か引っ越しますが、横浜から住まいを移すことはありませんでした。
一方、日本写真界の巨星 土門拳は1909(明治42年)山形県酒田市に生まれます。7歳のとき東京に移り、その後9歳のときに横浜に移り住みます。小学校、中学校(現在の翠嵐高等学校)時代を横浜で過ごします。
熊田、土門二人はまだ出会うことはありませんでしたが、共に12歳の頃 横浜で絵の世界に目覚めます。土門は横浜美術展展覧会に入選し、熊田は神奈川県立工業学校の図案科で絵を学び始めます。
二人が出会ったのは戦前のデザイン界の巨匠名取洋之助が起こした「日本工房」編集部でした。土門が写真、熊田がデザインを担当し数々の作品を作成します。
その後 戦争を経て終戦を迎え二人の道は大きく分かれて行きます。熊田は挿絵家として地味ながら着実に自然に目を向けリアリズム(ボタニカルアート)を開花させていきます。土門はカメラ片手に日本各地を廻り、人間へのリアリズムとしてのまなざしを向けます。

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私蔵版かなり傷んでます。

熊田は、70歳で大きな転機を迎えます。
1981年(昭和56年)70歳の熊田はボローニャ国際絵本原画展に出品します。戦後画家として独立してから30年間のことは良くわかりませんが彼の性格から、あまり賞であるとかコンクールのような派手な振る舞いは好きでなかったと思います。
ボローニャ国際絵本原画展は、新人の登竜門として世界的権威のあるコンクールです。ここに出品した心の奥に土門拳の姿があったのではないかと私は感じました。
ボローニャ国際絵本原画展出品の二年前の1979年(昭和54年)9月土門拳が脳血栓で倒れ、昏睡状態となり1990年(平成2年)に亡くなるまで11年間意識を取り戻すことはありませんでした。
熊田はその後 人が変わったように表舞台に立つようになります。様々な賞を受賞し、個展を開き、インタビューに答え、テレビにも出演します。彼の姿勢を大きく変えた背景に<土門>があったと考えざるを得ません。

私がお邪魔したとき一枚の家族写真を見せていただきました。ウェルカム弁天通りと呼ばれていた時代に自宅の近くにあった「前川写真館」で撮られたものです。
「私はこの写真が大好きです」
描くことで真実を探し
撮ることで真実を見つめた 二人の足跡を今更ながら
すごい と感じます。
昨年(2011年)念願の土門拳記念館に行ってきました。

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本当は館内撮影禁止です。ごめんなさい。

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