このシリーズでは、横浜市電域というテーマでかつて横浜市電が走っていたエリアに限定し、このエリア内を考えてみます。
(横浜市電生麦)
横浜市電[子安線]が開通したのは
1928年(昭和3年)6月1日のことです。
開設路線は、現横浜駅前の「金港橋」から「生麦」です。
「金港橋」
1926年(大正15年)派新田間川に架かる長さ30.1mの橋です。
金港とは横浜港を指し、神奈川区の地名と首都高速の「金港ジャンクション」にその名が残っています。
※この橋から派新田間川上流方向に「月見橋」が線路脇に架かっています。この橋は松本竣介「Y市の橋」のモチーフとなったところで、作品と見比べてみる楽しみがあります。
[子安線]の走る神奈川から鶴見にかけての海岸線は、昭和に入り京浜工業地帯として急激に工業化が進んだエリアです。
<京浜工業地帯の進展>
1926年(大正15年)4月
麒麟麦酒横浜工場が生麦に開業します。関東大震災で山手の工場が倒壊したことと、設備刷新のために新しい工場用地を求め、この生麦に進出しました。
※本店を横浜市から東京に移したのは1965年(昭和40年)のことです。
1929年(昭和4年)
小倉石油横浜製油所操業→後の日本石油(新日本石油)創業の地です。
1931年(昭和6年)
RCAビクター横浜工場開場→現在の日本ビクターが横浜と関係の深い企業であること、意外と知られていません。1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)はビクタートーキングマシンカンパニーの日本法人として設立として設立し、当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードを製造する第一工場を横浜に建設します。
1932年(昭和7年)
日本アルミナ工業所設立→(現:昭和電工横浜事業所)戦前は森コンツェルンの中核企業として明礬石を原料にしアルミナの生産開始します。
1935年(昭和10年)
日産自動車株式会社横浜工場操業→横浜生まれの日産自動車はここから戦前多くの車輛を製造し送り出しました。
1938年(昭和13年)
日本カーボン 横浜海岸工場建設
古くは1915年(大正4年)に神奈川区浦島ヶ丘に設立したのが始まりで天然黒鉛電極製造を開始します。その後事業拡大の一環として「電刷子等高級炭素製品用素材」を生産するために横浜海岸工場を建設します。
以上簡単に湾岸進出した大企業の工場を紹介しました。市電[子安線]は京浜急行・国鉄と共に工場の発展とともに歩み始めます。
上記の工場以外にも大小様々な工場が海岸線を埋め尽くしていきます。
東海道を境に丘陵部には住宅地が形成され、戦後は地域最大級の大口商店街が誕生します。
国鉄・京浜急行・市電という3系統が走るこのエリアは、関東大震災復興を境に発展し、昭和初期の誕生した数々の工場と共に歩んできたエリアです。
(生麦魚河岸通り周辺)
工業化が急速に始まる中、このエリアの東、鶴見に近いエリアに「生麦魚河岸通り」があります。
「生麦」といえば歴史教科書に必ず登場する「なまむぎじけん」が起こったところですが、ここでは省きます。(記念碑・資料館があります)
江戸時代の頃このエリアは
横浜沖を広く漁場とする漁業の中心地でした。江戸前と良く言いますが、江戸の魚介類は江戸近郊の漁業が支えていました。
特に生麦は江戸湾(東京湾)八カ所の幕府認定専用漁場の一つで市場も立ちました。
この生麦の魚介類を扱う市場が
明治以降、埋立ての歴史に翻弄されながらも
このエリアで多く水揚げされたノリ・貝・魚の専門店街として生き残りました。
通称「生麦魚河岸通」と呼ばれています。
かつては貝殻の多く混じった砂利道だったそうです。
県内全域から「寿司や」「小料理や」がここにネタ探しに訪れました。
流通の変化で 県央の客筋の激減、チェーン展開による集中仕入で寿司店の仕入れがなくなります。
現在では かろうじて魚河岸通の雰囲気を残している程度です。
再生は(少なくとも生き残る)最後のチャンスかも知れません。
(生麦〜鶴見)
戦争が激しくなった頃、軍用工場が密集していた京浜・鶴見地域の労働者を運ぶために急遽、子安線の延長が決まります。
1944年(昭和19年)に建設が始まり、戦争が終わった1945年(昭和20年)10月30日に進駐軍の命令で廃止されたたった一年の短命線がありました。