No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

今日のエピソードは昨日に続き横浜を母港に活躍した太平洋航路の花形客船「龍田丸」です。
1943年(昭和18年)のこの日、日本郵船所属「龍田丸」は伊豆諸島の一つ御蔵島沖で米潜水艦「Tarpon」により雷撃を受け沈没しました。日本郵船龍田丸

昭和前期の海外旅行は客船が主力でした。特に開戦までの十数年、太平洋航路は日本客船の輝かしい時代でした。
戦前の日本を代表する太平洋航路(横浜ーサンフランシスコ間)の花形といえば、「浅間丸」とその姉妹船「龍田丸」、そして「鎌倉丸」です。
この三隻は他の客船を圧倒する豪華客船でした。
今日の主人公「龍田丸」は日本郵船船籍の建造番号451番の大型豪華客船です。総トン数16,875t全長178mで、スイス製スルザー型ディーゼル機関を4基搭載4軸プロペラシャフトの豪華客船でした。平常時の通常船舶保険等級はロイズ船級協会の最高船級評価を受けました。

浅間・龍田丸

第二次世界大戦で日本の商船は約2,300隻失われ、3万人の乗組員が戦場で亡くなります。
民間人でありながら戦争の最前線に立った人々の壮絶な歴史です。
「龍田丸」は「鎌倉丸」と対戦中に特別の任務を果たします。二隻は日英交換船として「安導券」を付与されアフリカと横浜を往復します。
龍田丸は昭和17年7月30日に横浜を出発し、上海、昭南(シンガポール)を経由してモザンピークの首都ロレンソマルケス港まで英国人を運び9月27日に横浜に戻ります。鎌倉丸は追いかけるように8月10日に横浜を発ち龍田丸と同じコースを辿り10月8日に帰港します。
「安導券」とは、
「交戦国が国籍の如何を問わず、個人もしくは船舶または中立国もしくは敵国に属する部隊またはその他の集団が、予め定められたる一定の場所に赴くを許せる事を証する文書である」
と戦時国際法の中で規定されたもので交戦国であっても互いに航行の安全が保証される船を指します。(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)
「安導券」を付与された船舶には二種類ありました。その一つが「交換船」です。開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船の事です。第二次世界大戦では、日米で二回延べ3隻、日英で一回二隻が仕立てられました。

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もう一つの「安導券」を付与された船舶は「救恤品輸送船」で、敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船のことです。延べ三隻(白山丸、星丸、阿波丸)が依頼を受け、慰問品を運びました。
この中で、日本郵船「阿波丸」は「安導券」を付与された船舶にも関わらず、台湾沖で米国潜水艦に魚雷攻撃を受け、一瞬にして2,000人を超える人命が失われました。1945年(昭和20年)4月1日のことです。
この悲劇は浅田次郎さんの「シエラザード」(講談社文庫)に小説としてみごとに描かれています。

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もう一つの「龍田丸」をめぐるエピソードは、レストラン「かをり」の物語です。日本初のホテルがあった居留地七十番に建つレストラン「かをり」の創業家 板倉作次郎さんは龍田丸の司厨長として乗船していました。(日本初のホテルについては2月20日にご紹介します)
横浜は戦後ニューグランドを軸にしたホテル系レストランと、日本郵船を代表とする客船料理人系の活躍でア・ラ・カルトを楽しむハマの洋食界をリードしてきました。
レストラン『グリル・エス』のオムライス
今は無き日本郵船ビル地下「オーシャン」の木村さんのクッキーは忘れられません。多くのお店が閉店しましたが、この横浜洋食の文化は他の洋食レストランにもしっかり受け継がれています。
※追記。台湾沖に沈んだ悲劇の「阿波丸」の初代は明治31年長崎で建造されました。1912年(明治45年)2月14日横浜港より桜の苗木6,040本を積みシアトルに向け出航した(皮肉にも)日米友好の船です。

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