No.37 2月6日 都市デザインの実践場

都市をデザインすることは魅力的なことです。

再開発には既得権という大きな障壁を乗り越えなくてはならず至難の業です。
フリーハンドで都市をデザインできる、これはアーバンデザイナーの夢です。

1989年(平成元年)のこの日、YES’89を開催した後の空間(みなとみらい21地区)のまちづくりについてのシンポジウムが二日間に渡って、横浜新都心ホールで開催されました。

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このシンポジウムは、横浜博開催後のみなとみらいエリアの開発(整備)計画のグランドデザインを宣言する役割を持つものでした。
横浜市のアーバンデザイン(後の都市デザイン)にとって、大都市圏に残された数少ないフリーハンドで都市デザインが描ける実践場だったのです。
基調講演に立った磯崎新氏は、(1986年4月、師でありライバルであった丹下健三氏の新都庁コンペで負けた皮肉を込め)建築デザインにおける都市行政、建築行政の法的限界を提起しました。

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昭和63年7月に「街づくり基本協定」という指針整備はできましたが、公共的方向軸と民間事業者の私的方向軸の調整を現実にどこまできるのか課題を抱えた整備計画でもありました。
みなとみらいエリアの整備計画は、1965年に発表された「横浜市六大事業」の基本計画を骨格とした「都心部整備計画」を下にデザインされたものです。飛鳥田市長の説く横浜七重苦からの脱却を目指していた横浜市は、他の首都圏都市と大きく異なっていたのが「日本最大級の米軍接収」都市であったことです。(沖縄は当時日本国ではありませんでした)
経済商業の中心部は横浜駅西口に移動しつつあり、関内エリアの地盤沈下は横浜全体の浮沈にもかかわるアキレス腱になりつつありました。

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横浜駅東西のバランスととりつつ、東口から関内エリアをつなぐ広大な三菱造船を都市整備し「つなぐ」ことによって横浜の都市力を一気に活性化させることを狙った「みなとみらい」整備計画は多くの関係者が固唾をのんで待ち構えていた巨大プロジェクトでした。
ところが、バブル期にスタートしたこの計画は「バブル崩壊」で大きな軌道修正を迫られます。
1960年代に夢見たみなと「の」みらい青写真は現在の姿とかなり違っていますが、なかな美しい街に育っていると思います。

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いまだ変化しつつある「みなとみらい」ですが、より魅力ある街になっていくことを期待しています。

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