1940年(昭和15年)東京オリンピックの影で同じく延期となった国際イベントがありました。
会場も東京と横浜に決まっていました。
日本萬国博覧会(EXPO JAPAN)です。
この萬国博覧会は1940年3月15日〜8月31日の期間に開催される予定でした。オリンピック同様に日中戦争の激化などを受けて開催を延期します。
EXPOとは、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる博覧会のことで、国際機関が認定した国際博覧会のことを指します。国が申請し、総会で承認される必要があります。システムはオリンピックと似ていますね。
昭和に入り、横浜は復興振興を兼ねイベントを重ねます。
※産業文化展覧会
1931年(昭和6年)11月3日〜9日の一週間
※復興記念横浜大博覧会
1935年(昭和10年)3月26日〜05月24日
この博覧会は3,299,000人を動員します。
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」(乃村工芸サイトより)
引き続き
1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年に合わせ
東京オリンピック、日本萬国博覧会が計画されました。
日本が初めて国際的な博覧会に参加したのは1867年(慶応3年)のパリ万博です。
その後、積極的に外国の博覧会へ参加し同時に国内でも多くの博覧会を開催することになります。
国際博覧会の場合、前述の通り<国際機関>の総会での認定が必要となります。
明治時期から昭和の戦前期にかけて万博の日本開催を計画しますが中々開催に至りませんでした。国際機関認定の「日本万国博覧会」=大阪万博が1970年に開催するまで100年の歳月がかかったことになります。
一方で横浜ならではの大型イベントが開催されました。
観艦式です。
13回 1927年(昭和2年) 10月30日 大演習観艦式 横浜沖
14回 1928年(昭和3年) 12月4日 御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大 横浜沖
15回 1930年(昭和5年) 10月26日 特別大演習観艦式 神戸沖
16回 1933年(昭和8年) 8月25日 大演習観艦式 横浜沖
17回 1936年(昭和11年) 10月29日 特別大演習観艦式 神戸沖
18回 1940年(昭和15年) 10月11日 紀元二千六百年 特別観艦式 横浜沖
観艦式は 明治以降 18回開催されますが、半数が横浜港で開催されました。
特に第5回の日露戦争凱旋観艦式以来の14回中、8回が横浜沖で開催されます。
観艦式は横浜にとって日常イベントになっていたようです。
1940年(昭和15年)オリンピックと万博が中止になった年、横浜港では「紀元2600年記念特別観艦式」が挙行されますが、規模は航空機中心で艦船の規模はかなり控えめとなりました。日米が戦争に突入する一年前の頃の出来事です。
紀元二千六百年「日本萬国博覧会」入場券。
※ネット情報の多くが東京会場としていますが、横浜もしっかり会場となっています。
昭和初期、日本が国際関係に行き詰まり開戦を選ぶに至った十数年、イベントで横浜が賑わっていたことも記憶に残しておいて欲しいものです。