No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA

参考資料の一つ「横浜近代史総合年表」の中から、1921年(大正9年)のこの日、「鶴屋」が焼失した記事を発見しました。
明治大正期、
大都市に成長した横浜の発展は災害との戦いでもありました。
横浜最大の繁華街「伊勢佐木」の街も様々な火事、そして関東大震災、空襲を乗り越えてきました。
戦前の横浜年表からは多くの火災記録を発見することが出来ます。
横浜鶴屋といえば「GINZA MATSUYA」の前身、松屋鶴屋呉服店のことです。横浜から育ったデパートのエピソードをご紹介しましょう。

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デパートは19世紀の歴史的発明の一つと言われています。
19世紀半ば、パリに産声をあげた、世界初のデパートであり世界最大の大型小売店「ボン・マルシェ」の登場です。
消費を「ニーズ」から「シーズ」に変えた画期的発明でした。
ウィンドウ・ディスプレイや広告、演奏会、バーゲンなどいまではごく当たり前の販売戦略を次々と発明していった『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂著)によって時代が変わりました。それから半世紀後、日本でも各地に現在の百貨店スタイルに近い商業施設が登場します。
横浜では呉服店を母体とした大型店舗が次々と登場します。その中に、横浜の片隅に誕生した鶴屋呉服店がありました。今日のエピソード、MATSUYA GINZAのルーツです。
創業者の古屋徳兵衞氏は十三歳で甲州白州町から江戸に出て奉公に入ります。
その後幕末の動乱で郷里に帰りますが、再び故郷から横浜に出て呉服の仲買商を始めます。商売も順調に進み慶応4年、20歳の時に横浜緑町(西区)に呉服商を開業します。
その後、1869年(明治2年)「鶴屋呉服店」を石川町亀の橋に創業します。
創業から20年たった1889年(明治22年)、順調に業績を伸ばしていた鶴屋に転機が訪れます。

経営不振の東京神田今川橋「松屋呉服店」を立て直して欲しいと依頼され買収します。最初は無理矢理統合せず、今川橋「松屋呉服店」のやりかたを尊重し立て直しに成功します。
1903年(明治36年)に横浜と東京を古屋松屋呉服店と名前を統一します。
1910年(明治43年)には三階建ての横浜鶴屋呉服店を横浜の商業中心地伊勢佐木町にオープンします。
1919年(大正8年)には株式会社松屋鶴屋呉服店となり、1924年(大正13年)に商号を「株式会社松屋呉服店」とします。
1925年(大正14年)に銀座本店が開業、横浜も吉田橋横浜店、壽屋を合併し浅草にも出店します。
その間、数回の火災、震災の大きなダメージを乗り越えて行きます。
創業者はアイデアマンでした。店員教育の革新、アイデア商売の連続。例えば端切れ布の小売り、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って商品化し人気を博します。一番有名なのが「バーゲン」(特売日)で、元祖と言われてます。
MATSUYA GINZAの歴史

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また、当時百貨店の情報発信源として注目を浴びていた機関誌(PR誌)でも明治39年に「今様」を発刊します。最初は季刊でしたが後に月刊になります。PR誌としては、三井呉服店(三越)の「花ごろも」、髙島屋飯田呉服店の「新衣装」、白木屋「家庭のしるべ」等に次ぐ後発ですが布地の実物見本を貼付けるなど豪華でデザインが光るPR誌でした。

現在横浜から離れ東京のMATSUYA GINZAとなっていますが、松屋のDNAは先取の気風が満ち満ちていた横浜(現在無いという訳ではありません)にあります。
2007年2008年連続して毎日デザイン賞特別賞受賞、毎日広告デザイン賞の先駆けは1955年のグッドデザイン賞コーナー設置、戦前の「今様」にその革新性があったからではないでしょうか。

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