No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

またまた嘉右衛門エピソードです。(20130127一部加筆)

1月27日は高島嘉右衛門の瓦斯会社をめぐる国際競争の話しをしました。
今日は彼が学校を作った話しです。
明治時代は全国に学校が多く生まれた時代です。
1871年(明治4年12月19日)の今日、高島嘉右衛門は伊勢山下と入舟町に私財3万円を投じて語学を中心にした塾を開校しました。
「藍謝堂」通称高島学校と言います。
他の鉄道建設、ガス事業と比べて地味ですが興味あるところです。
高島学校については手元にあまり情報がありませんので少し仮説を含め進めて行きます。

開港150周年記念のお芝居にもなった藍謝堂は、怪商 高島嘉右衛門が手がけた学校です。
創設時、福沢諭吉に協力を求めます。
協力してくれたら子供の留学資金を出そう!
と福澤諭吉に手紙を書くなど 何度か依頼をします。
福沢諭吉は丁重に断ります。(福翁自伝では“高島”のタの字も出さず断ったとあります)
でも本音はかなり不愉快だったようです。
一説では拒絶と伝わっています。
少し長くなりますが「福翁自伝」を引用します。

「子供の学資金を謝絶すそれにまた似寄ったことがある。明治の初年に横浜のある豪商が学校を拵えて、この慶応義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をしていました。そうするとその主人は、私に親(みず)から新塾に出張して監督をして貰いたいという意があるように見える。私の家には、そのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳に弟が五歳ぐらい。これも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とかいう人が動(やや)もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶ者が多い。嗚呼(ああ)見苦しいことだ、自分の産んだ子ならば学問修業のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣き付いて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心窃(ひそか)にこれを愍笑(びんしょう)していながら、私にも男子が二人ある、この子が十八、九歳にもなれば是非とも外国に遣らなければならぬが、先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途甚だ遙かなり、二人遣って何年間の学費はなかなかの大金、自分の腕で出来ようか如何だろうか、誠に覚束ない、困ったことだと常に心に思っているから、敢えて恥ずることでもなし、颯々と人に話して「金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳だ五歳だというけれども、モウ十年経てば支度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜いが」と、人に話していると、誰かその話を例の豪商にも告げた者があるか、ある日私のところに来て商人の言うに「お前さんにあの学校の監督をお頼み申したい、かく申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、わざわざ月給と言っては取りもしなかろうが、ここに一案があります、外ではない、お前さんの子供両人、あのお坊ッちゃん両人を外国に遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何だろう、ここで今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、ところで今いらない金だからソレをどこへか預けておく、預けておくうちに子供が成長する、成長して外国に行こうというときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何でござる」と言い出した。なるほどこれは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降って来たようなもので、即刻、応と返辞をしなければならぬところだが、私は考えました。待てしばし、どうもそうでない、そもそも乃公があの学校の監督をしないというものは、しない所以(ゆえん)があってしないとチャント説をきめている。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き、前説を変じて学校監督の需(もとめ)に応じようと言えば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請け取るのが間違いである。金のために変説と言えば、金さえ見れば何でもすると、こう成らなければならぬ。これは出来ない。且つまた今日金の欲しいというのは何のために欲しいかと言えば、子供のためだ。子供を外国で修業させて役に立つようにしよう、学者にしようという目的であるが、子を学者にするということが果して親の義務であるかないか、これも考えてみなければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないという理窟はない。親が自分に自ら信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、いわゆる独立心の居所(いどころ)がわからなくなる。親子だと言っても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉仕しなければならぬということはない。宜しい、今後もし乃公の子が金のないために十分の教育を受けることが出来なければ、これはその子の運命だ。幸いにして金が出来れば教育してやる、出来なければ無学文盲のままにして打遣(うっちゃ)っておくと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してくれたので、もとより私の心事を知る訳けもないから、体(てい)よく礼を述べて断わりましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、また顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相変わらず真面目に家を治めて著書翻訳のことを勉めていると、存外に利益が多くて、マダその二人の子供が外国行の年頃にならぬさきに金の方が出来たから、子供を後回しにして中上川(なかみがわ)彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私のためにたった一人の甥で、彼方もまたたった一人の叔父さんで外に叔父はない、私もまた彦次郎の外に甥はないから、まず親子のようなものです。あれが三、四年も英国に居る間には随分金も費やしましたが、ソレでも後の子供を修業に遣るという金はチャント用意が出来て、二人ともアメリカに六年ばかり遣っておきました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。よくあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛かりだが、宜いことをしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾(きず)を付けなかったような心持がします。」

福沢と高島の接点はどこにあったのでしょうか?
なぜ断ったのでしょうか?
今日はこのあたりのことを少し考えてみます。
その前に「藍謝堂」について。
伊勢山下に開校とありますから、瓦斯会社の近くです。実業家高島嘉右衛門はかなり大規模の学校ビジネスを構想したのでしょう。
実際には学生が集まらずビジネスにならないということであきらめたのか、
開校二年で神奈川県に預けてしまいます。
高島の強い招聘に対し福沢は全てを断る道理も無く自分の代わりに
慶應義塾の教員を派遣します。
福沢は高島学校を訪れることはありませんでした。

(高島学校に学んだ人達)
短期間ですが高島学校では意外な人物が学んでいます。
著名人としては、岡倉天心(東京美術学校、日本美術院の創設者)寺内正毅(軍人、総理大臣)渡部 鼎(医師)が有名です。
渡部鼎は、高島学校で英学と理化学を学び医学を志し(現在の)東京大学医学部に学びます。野口英世が医学を志すきっかけとなった医師です。
野口英世も横浜エピソードが沢山あります。金沢区の長浜の検疫所に勤めていました。

No.387 謎解き野口英世
1871年(明治6年)11月11日

高島が手放した藍謝堂は、野毛山に新校舎を設立し「横浜市学校」と改めます。翌年『修文館』となりますが焼失し廃校になる運命となります。

さて福沢と高島の関係ですが
慶応義塾は明治に入りしばらく経営難となり資金繰りに苦労します。
そのことを知ったのかどうかわかりませんが、高島は福沢に資金提供を働きかけています。高島流ヘッドハンティングを試みたようです。
当時多くの政治家、外交官と付き合いのあった高島嘉右衛門の申し出に門前払いも大人げないので、福沢はスタッフを送り込むことで彼を敵にしないようにしたのでしょう。
慶応義塾から送り込んだ教師は福沢の側近中の側近、(例えば大阪慶応義塾を立ち上げた名児耶六都とか義塾草創期の盟友小幡甚三郎)を派遣しているところからも、
しっかり塾長福沢の意を踏まえた上で赴任したと推測できます。
高島と福沢はその後、対立していきます。
横浜のガス灯事業に関しては、これも横浜で医師として活躍した福沢の愛弟子で「丸善」を創設する早矢仕 有的が、瓦斯会社売却疑惑を全面批判します。
福沢自身も後に「時事新報」で高島の方法を批判します。
高島がたった二年で「高島学校」を手放したのは
慶応義塾から応援に行ったメンバーがキーワードを揃えて
「学校経営は大変ですよ!」
嘉右衛門の耳元でささやいたからかもしれません。
高島学校は売却ではなく寄付されます。
1873年(明治6年)に「学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される」と高島は自叙伝で自慢をしていますが実際は大赤字で手放したのが事実のようです。

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