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No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。

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(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)

幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。

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「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」

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その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。

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(おじいちゃん似だよね)

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