No.18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

幕末から明治にかけて横浜は東京と肩を並べる芝居の中心地だった。横浜には大小合わせて20以上の劇場があった。大正4年1915年のこの日、横浜で最も歴史のある劇場「羽衣座」が四度目の焼失を受け再建を断念、半世紀の歴史に幕を降ろした。

羽衣座は、文久元年に創業された下田座と佐野松が合併されて羽衣町、厳島神社横にオープンした。前身を含めると最も歴史ある芝居小屋だった。東京・関西の一流役者を多数受けいれ歌舞伎を始め有名人の大芝居を興業した名門劇場である。

(かつてのイシマル電気の裏あたり?)

演目は歌舞伎が中心だったが、新派はもちろん、ボクシングの試合も行われた。
1909年(明治42年)に羽衣座で、英国人のボクシングチャンピオン、スミスと柔道家の昆野睦武(こんのつかのり)の「柔道対ボクシングの国際試合」が行われたという記録が残っている。英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に講道館に申し込んだというから面白い。明治のK1だ。昭和の「猪木・アリ戦」??
結果は?
ボクシングなど全く知らなかった昆野睦武だが、激しい戦いの応酬の末、肋骨を2本折られながらも7勝1敗で世界一のスミスを破った。英国と言えば当時ボクシングは国民的スポーツだぜ。
当時、ライバルであった喜楽座と競いながら人気を分けてきたが、
明治32年8月12日に起った関外大火事で全焼する。この関外大火事で、伊勢佐木界隈の多くの劇場が店をたたんだが、羽衣座は再建。
翌年の10月に今度は自分の所から火を出し焼失する。それでもめげないで新築する。
明治36年にこれまた焼失するが再建。
そして大正4年に焼失し 再建を断念する。この頃、芝居小屋の主流は喜楽座に移っていた。

(喜楽座が建っていた場所)
喜楽座成功の特徴は、19世紀末から娯楽の世界に参入した活動写真(映画)を活かし芝居も行ったことだ。また九世団十郎・五世菊五郎・初世左団次等、明治期に人気役者が没した後も一流役者たちののぼりを上げたことであった。
横浜の芝居小屋は、明治32年の関外大火事と大正12年でほとんどを失う。その後現在まで、芝居の中心地としてのエネルギーは失われたままだ。
長くなるが
今年の新春歌舞伎は、歌舞伎座が改築中のため、新橋演舞場で「め組の喧嘩」が上演された。ストーリーは「ふとしたことから、江戸火消し「め組」の鳶と、場所中の相撲取りの喧嘩がはじまり、お互い意地の張り合から ・・ 江戸を沸かせた大喧嘩となった。命知らずの火消と力自慢の力士達の舞台いっぱいの喧嘩の大立ち回りが見せ場・・・。」これは文化二年(1805年)に、実際にあった事件を河竹黙阿弥が芝居にしたもの。
ただの喧嘩が時の三奉行を巻き込んだ(役人の縦割りや揶揄?)大事になるという芝居だ。
歌舞伎の定番、新春にも良くかかるこの演目は、羽衣座とも少なからぬ縁がある。明治34年5月横浜市羽衣座で世話物が得意の二代目尾上菊次さん(昭和45年に亡くなる)が初舞台を踏んだ作品が『め組の喧嘩』だ。
歌舞伎とは「傾く」(かぶく)からきているとか。時代の空気を表現した「歌い舞う芸妓」が皮肉にも「め組の喧嘩」をかけるとは、どこかのマツリゴト師にも見て欲しいものだ。

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