No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖

昭和45年(1970年)開業以来約40年間市民に愛されてきたハマボウルは、2007年のこの日建て直しのため閉鎖された。そして新規事業として「HAMABOWL EAS」が立ち上がるが、残念なことに311で壊滅的打撃を受け再開のめどが立たず昨年(2011年)4月11日にボウリング部門が閉鎖された。ここでは311による閉鎖ではなく地域に愛された昔ながらの「ハマボール」を中心に西口界隈について紹介する。

幕末から日本に伝わったボウリング、1970年前後に一大ブームとなる。「ハマボール」もこの時期にオープンした。一時期下火になったが、1979年頃から人気が再燃。現在も根強い人気があり横浜市内に10近いボウリング場が営業している。この浮き沈みの中でも変わることの無い営業を続けてきたのが「ハマボール」だ。スケート場、アーチェリー、ビリヤード、ゴルフ、バッティングセンター、卓球、カラオケなどを備える総合レジャー施設の草分け的存在だった。長続きした要因は、親会社の息の永いエネルギー事業者としてのミツウロコの経営姿勢にあったのかもしれない。
創業は大正8年、大正15年には三鱗石炭と三井物産との合弁で三鱗煉炭原料株式会社となり業界屈指の企業となった。ライバル会社には品川燃料(シナネン)、十全などがある。戦後財閥解体、エネルギー転換が始まる中、昭和36年東京煉炭、横浜煉炭、栃木三鱗、永沼燃料、湘南燃料を合併し、株式会社ミツウロコに社名変更する。
LPガスを中心とするエネルギー事業、風力発電やその他新エネルギーによる発電、電力供給のクリーンエネルギー開発事業、不動産事業等を広く手がけている。富士の宝物バナジウム63天然水で有名な「富士清水」もミツウロコ傘下にある企業だ。
煉炭といえば、最近では自殺ツールに使われていささかイメージが悪いが、画期的省エネ燃料として登場した。横浜とも深い関係にある。
横浜経済を支えた生糸の主力生産地であった群馬県で、養蚕室の保温にこの練炭が果たした役割は絶大だった。煙が出ず火災の恐れが少ない練炭の普及が安全であり、無駄な火付け用木炭の節約になったからだ。

話しを戻そう。「ハマボール」は横浜近隣の都市型レジャー施設の役割を十分担った。その土壌は、1953年(昭和28年)相鉄の西口開発着手に始まる。終戦時、ぺんぺん草、砂利置き場の西口と言われた裏駅を繁華街に変える一大事業だった。?島屋ストアが進出し大成功をおさめる。そして1964年にダイヤモンド地下街が開業することで横浜駅西口の吸引力が一気に増大する。横浜駅の表玄関になった。
1962年に横浜ボーリングセンターが横浜ステーションビル内に開業1963年に横浜ハイランド(反町遊園地)が開園するなどレジャー施設のニーズが高まって行く。そこに1968年横浜スカイビル(初代)と横浜国際ヘルスクラブオープンがオープンし横浜駅東西戦争が始まった。
1970年「ハマボール」がオープンする。そして2007年にその幕を閉じる。
「ハマボール」の歴史は横浜駅西口界隈繁栄の側面史でもある。

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