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No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔(一部加筆)

歌人 種田 山頭火
そして
詩人 金子 みすゞ
大正・昭和初期を生きた二人。

金子はテレビCMで、ドラマで山頭火は知名度を上げましたが、
同時代の詩人、永井叔(ながい よし)を知っている方はかなり少数派ではないでしょうか。
1926年(大正15年)のこの日、漂泊の詩人永井叔の送別会が現在の中区南仲通の中日ビルで開催されたと年表に記載されていました。

偶然見つけた一行に、永井叔(ながい よし)の名。
「オアシス社主催漂泊詩人永井淑(原文ママ)送別会、南仲通中日ビルで開催」
何気なく調べ始めたところ 詩人「永井叔」の不思議な一生に出会うことになります。
永井は1896年(明治29年)四国松山市の代々御典医だった医者の5番目の末っ子として生まれました。
京都に出て同志社を卒業後,東京の青山学院で神学を学びます。
1918年(大正7年)徴兵され朝鮮竜山、歩兵第78連隊に入隊します。
暴れん坊の永井は、上官に逆らい、禁錮2年で軍獄入り、懲罰の後退役します。
(放浪詩人)
このことがきっかけになったのか托行と称しマンドリンを弾きながら全国を放浪します。

ある時は
天文学者と天体観測に集う子供達と写真に写り、
またある時は
絵本のモデル
になり、
駅前や広場でマンドリンを弾く姿を見た証言や新聞記事が残っています。

漂泊のマンドリン弾き永井叔は<放浪を「托巡」>と表現しました。
一方で種田山頭火は放浪を「行乞」と呼びました。
また

永井は放浪詩人であるとともに
「すべてはエスペラントのように……すべては大空のようにー」と書いたタスキをかけたエスペランティストでもありました。
戦前、特に大正時代には一つの時代潮流としてエスペラント(Esperanto)運動がありました。エスペランティストは世界共通語を使うことで異なった民俗や文化の理解(共有)を推進する人たちでした。
エスペラント(Esperanto)とは、1880年代にルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語のことです。
「母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語(wikipedia)」

ちょっとこの表現には違和感がありますが、エスペラントの世界観は<平和>
永井の世界観にもエスペラント(Esperanto)が共鳴したのでしょう。

とにかく奔放だったことは間違いないようです。
学生時代に神学を学んだことにも起因するのかわかりませんが、宮沢賢治的な宇宙観を感じます。

彼の行動を追いかけて行くと意外な接点を発見しました。
マンドリン放浪の末、広島で永井は
(知るヒトぞ知る)長谷川泰子
という女性と出会い一緒に京都に行くことになります。ところが 同じ詩人の中原中也に彼女を奪われてしまいます。さらに、その中原は
<小林秀雄に彼女をとられてしまう「口惜しい男」>
として生涯を鎌倉で終えることになります。
(男の立場ではそうですが、当時の女性の生き様もかなり注目に値します)

冒頭に戻ります。
1926年(大正15年)
オアシス社の送別会を横浜で開催したという記録ですが、
調べた限りでは 永井の作品がオアシス社で出版された形跡はありません。このオアシス社が出版関係なのかも現在不明です。出版に関しては

その多くが支援か自費出版に近いものだったようです。

彼の代表的作品は、当時の出版物の中でも特に装丁が変わっていました。
従来の出版では物足りなかったのでしょう。
永井は1977年(昭和52)春、東京でなくなります。享年80歳でした。
一行の年表でしか<横浜>と接点がありませんでしたが、
南仲通 中日ビルで 永井叔を囲む会が開かれたことは間違いないのでしょう。

どこかで彼の足跡と出会うことを期待して 今日はこれまで。

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