新年あけましておめでとうございます。
今年一つの目標を立てました。
「暦で綴る今日の横浜」です。暦から一日一日の出来事を拾い出し横浜について綴っていきます。 日によってはその日に直接結びつけることができない事もあるかもしれませんが、それでも何か書いていきます。
今から30年前、本で綴る今日の暦の原稿を書き続けた経験があります。大変な一年でしたがこの努力が私の大切な転機となりました。「暦で綴る今日の横浜」は横浜を軸にしたため、かなり苦戦しそうですが自分自身のため楽しく苦戦します。 正月元旦なので 特別版を書きます。(2012年6月27日書換版)
(エピローグ?)
1999年(平成11年)正月元旦(金)。
一つの歴史が終わり、一つの偉大な記録が残りました。
横浜のスポーツにとって奇跡の一年、1998年でした。
横浜以外にお住まいの方でも、おそらく日本史上最初で最後の偉大な記録を一つは記憶されているでしょう。
こんなに一つの街がスポーツに輝いた年はかつてありませんでした。
1998年は二度と無いかもしれない!「横浜スポーツイヤー」でした。
1999年(平成11年)正月元旦、横浜奇跡の1998年を締めくくるフィナーレに相応しい戦いでした。舞台は国立競技場。新年の明け方、気温は0度近くまで冷え込み雲一つない快晴でした。
この日、第78回全日本サッカー選手権大会が開催され横浜フリューゲルスが頂点に立ち天皇杯に輝きました。
対戦相手は清水エスパルス、逆転の末の優勝でした。この天皇杯は、日本サッカー界の年間チャンピオンを決める記念すべき、お正月恒例の試合です。
天皇杯はトーナメント方式ですので負けた時点で姿を消します。横浜フリューゲルスにとって、負けた時点でチーム消滅となるデッドラインの戦いでした。
事前の予測を全く裏切り、フリューゲルスは1月1日の決勝まで苦しみながらも一つ一つ勝ち上がり、みごと優勝に輝きました。このドラマのような横浜フリューゲルス物語は詳しいネット情報に譲ることにします。
(プロローグは十人抜き)
1998年奇跡の横浜イヤー
プロローグは、正月開け
1月・2日の第74回東京箱根間往復大学駅伝競走の神奈川大学(神大)から始まりました。
鶴見中継所で11位だった神大は、戸塚で8位、藤沢で7位、平塚で6位と静かに粘り強く順位をあげていきました。この時点でも往路はトップ早稲田と二位駒大の争いだろうと多くの関係者は予測していました。
湘南海岸を各チームが走り抜ける中、さらに神大はじりじりと順位を上げていきます。二宮で5位に着け小田原市内に入ると中央大学と3位を争うトップが視野に入る位置までになっていました。
そして往路ファイナル第5区で一気にトップに立ち往路優勝を遂げることになります。2位とわずか13秒差で駒澤大学が入り箱根駅伝始まって以来の僅差となるゴールシーンとなりました。
翌日1月3日復路は神大王者の走りでした。
前日の結果をふまえ駒大と僅差のスタートでしたが、一度も順位を譲ることなく往路復路優勝という完全優勝を遂げました。この神奈川大駅伝チームを率いていたのが大後栄治(だいご えいじ)監督で、前年の総合優勝に続き二連覇達成でした。日本体育大学出身で、89年に陸上競技部コーチに就任、現在も指揮をとっています。
http://professor.kanagawa-u.ac.jp/hs/human/prof09.html
(第二幕は豪快に)
横浜の快進撃は第二幕が訪れます。
同じ二連覇を遂げたのが神大の大後栄治監督の先輩となる、春口廣監督率いる関東学院大学ラグビー部です。
首都圏がこの年二度目の大雪となり、都心では16センチの積雪となった
1月15日(木)成人の日。
国立霞ヶ丘競技場で開催された大学ラグビー選手権大会決勝で、関東学院は47ー28で明治大学を圧倒し優勝を決めました。この知らせは、ファンは勿論、大学関係者、市のスポーツ関係者を歓喜に包みましたがまさか 横浜の大進撃がさらに続くとは誰も予測(夢にも想像)していませんでした。
(第三幕はいけるかも?)
朗報はさらに続きます。
第70回選抜高等学校野球大会、春の甲子園大会で投手松坂大輔を擁する横浜高校が優勝します。確かに松坂大輔の評価は前年の関東大会から野球界で注目されていましたが、春の甲子園にはハプニングもつきもの、何が起るか予測できない状況でした。
しかし予想通りの決勝は4月8日(水)3対0で関大一校を破り第70回というきりの良い優勝となりました。横浜高校は25年ぶり2回目の優勝でした。さらに常勝チーム横浜は、第80回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)でも春と同様に京都成章校を3−0で破り参加校数4,102校の頂点に立ちました。
この夏の大会で横浜高校が勝ち進む頃、プロ野球ファンはリーグ戦の動向が気になって仕方ありませんでした。あの阪神と最下位争いの常連横浜ベイスターズが開幕以来かなり、かなり善戦していたからです。
300話にしてようやく後半を書くことができました。