横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

(ブログを始める前2009年ごろに書いたものです)
横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編



横浜市歌に関する記録はあまりありません。残念ながら、関東大震災で多くの資料が失われてしまいました。横浜市歌ができ上がる記録を森鴎外の日記から辿ることができます。
1909年(開港50周年の年)2月に東京で市歌の打ち合せがあり、3月21日横浜市から森林太郎に市歌制作の依頼があったと書かれています。

この頃から日本全国校歌や社歌、市歌、記念歌がさかんに作られました。1907年小学校が6年間の義務教育施行、教科として「唱歌」が学校の必修になり、新しい音楽が日本中を満たし始めた時代です。校歌や市歌、社歌制作は当時花形の仕事だったといえるでしょう。

特に20世紀に入った1900年代には、こぞって全国の学校が校歌を作成しました。その受け皿が東京音楽学校だったようです。音楽学校出身 校歌作曲御三家は、山田耕筰、信時潔、そして平井康三郎です。(※私個人の調査集計)それぞれに個性が全くことなる三人でした。


東京音楽学校の御三家について簡単に紹介しましょう。山田耕筰(やまだこうさく)は、1908年東京音楽学校声楽科を卒業します。この時首席だったのが本居 長世で、野口雨情作詞『青い眼の人形』を作曲しました。この青い目の人形にまつわる『横浜ラプソディ』にも面白いつながりがありますので別な機会にご紹介します。

山田は、交響曲、オペラ、映画音楽そして詩人北原白秋と組み記憶に残る童謡を量産する天才肌でした。活動は作曲に留まらず積極的に楽団や音楽家の組織運営に乗り出します。戦前は軍歌も精力的に作り自ら軍服を着て指導したため軍部礼賛と非難され戦後戦犯論争が起ります。また、支援者との間で女性問題や運営のスキャンダルも抱え挫折しますが乗り越え、戦後も精力的に活躍します。
昭和初期、茅ヶ崎在住時に『赤とんぼ』(三木露風作詞)を作曲したことが縁で、茅ヶ崎に記念碑があります。校歌、団体歌は100曲を超えます。


信時潔(のぶとききよし)は、山田耕筰の少し後輩で、東京音楽学校予科入学後チェロを専攻しその後作曲部に進みます。

生涯1,000曲近い校歌の作曲記録が残っています。評価の高い代表作は、慶応義塾塾歌です。簡素で重厚な作風が特徴で、おそらく日本で最も多くの校歌を作曲した作曲家ではないでしょうか。山田耕筰とは作風、経歴、戦後の処し方で好対照といわれます。


平井 康三郎(ひらい こうざぶろう)は、ここで登場する作曲家の中では最も若く、戦後主に活躍しました。東京音楽学校ではバイオリン科卒業、山田が声楽、信時がチェロとそれぞれ違う音楽ジャンルというのも興味深いものです。

日本の合唱ジャンルを育てた功績者で、多くの合唱曲も作曲しています。600校近い校歌も日本全国幅広く作曲しています。横浜では滝頭小学校、菊名小学校、本宿中学校、東高等学校他10校近く残しています。中学校で歌った「人恋うは悲しきものと平城山にもとほり来つつたえ難かりき」『平城山』(narayama)の作曲が彼だったと知って驚きました。


市歌制作は、6月6日に完成という記録があります。依頼されたのが3月ですので三ヶ月の日数で作詞作曲したことになります。当時は作曲が先というケースが多く、横浜市歌も曲が先でした。

鴎外の日記には「5月2日南能衛、横浜市歌のことを相談に来る。」とありますので、この時点で譜の配分を伝えたのではと推理します。配分に合わせ、文字数を揃え6日に「南、音楽学校より電話にて予を招く。行きて、横浜市歌の譜を見て、直ちに転記す。」とその場で調整したのではないでしょうか。

歌詞が6月17日付けの「横浜貿易新聞」に発表され、開港記念日の7月1日、記念式典で出席者に披露されました。


この市歌制作に際し支払われた謝礼は、森林太郎に100円、南能衞に50円だったそうです。この金額は当時の相場でどのくらいだったのでしょうか。

森鴎外と並ぶ文豪夏目漱石が、明治26年東京高等師範学校の嘱託教師のときの年俸450円でした。明治36年(1904年)ごろの帝国大学講師の年俸は800円だったということですから、若き南能衞の謝礼は若いなりに良い方だったのではないかと想像できます。

一方作家でもあり、軍医でもあった森林太郎は明治40年45歳の時、軍医総監(少将相当官)の地位にあり月給300円プラス原稿料があり、かなりリッチだったことは間違いないでしょう。
貧乏有名人の明治代表、石川啄木は「悲しき玩具」の中で「月に三十円もあれば、田舎にては楽に暮らせると---ひよつと思へる。」と作品に残している時代です。

■最終章
南能衞は、なぜ前途有望な東京音楽学校助教授の地位を捨てたのか?確かな資料は見つかりませんでしたが、どうやら後輩の山田耕筰とは合わなかったようです。1912年山田が留学先ドイツから帰国し三菱財閥の支援も受けて東京音楽学校に戻ってくると聞いて、許せなかったのかもしれません。辞表を提出し、兵庫県の龍野市にある東洋楽器製造という会社に勤めますが教師の道が忘れられず今度は台湾で音楽指導に努めます。

彼は生涯指導者だったようです。専門はオルガンですが、楽理、和声論、音楽教授法、音楽通論等の指導に当たりました。彼の作曲は数曲しかありませんが、年配の人ならほとんど口ずさむことができる童謡を作曲しています。

村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

作詞者は不詳ですが、どことなく横浜市歌に似ていませんか?
題名は「村祭り」、文部省唱歌となり明治45年掲載されましたが、政府の決りで作詞作曲者名は無記名でしたので彼の名前は広く伝わることはありませんでした。
南が学校を辞めて移った兵庫県龍野は、南が去った後、山田耕筰のベストパートナーの一人で「赤とんぼ」を残した作詞家三木露風が育った街でもあります。歴史の皮肉かもしれません。

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