横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
今日は「千島艦事件」を中心に紹介します。
●1895年(明治28年)の今日
「千島・ラヴェンナ号事件が、横浜のイギリス法廷で解決した」
千島・ラヴェンナ号事件は「千島艦事件」と呼ばれ、
明治時代の日本軍艦の沈没補償をめぐる日英間の紛争事件です。
日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件ですが、その裁定結果を巡り日本国内の国会・世論を巻き込んだ一大事件となり、決着まで3年かかった事件です。
ここに簡単な経緯を紹介しておきます。
事件は
1892年(明治25年)11月30日に日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、沈没し乗組員74名が殉職します。
東京青山墓地にある千島艦乗員の慰霊碑 |
この年の8月8日には第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣は陸奥宗光、大山巌は陸軍大臣に復帰し、この事件に関わることになります。
この事件を陸 羯南(くが かつなん)は早速新聞に掲載します。
<軍艦千島号の沈没 既に電報欄内にも記せしが如くなるが尚ほ海軍省に達したる電報に曰く今朝五時頃伊予和気郡堀江沖に於て我軍艦千島号は英船ラベナ号と衝突し千島は遂に沈没せり生存するもの十六人なりと又た神戸通信者より我社に達したる電報に拠れば其要左の如し千島号の溺死者は七十四名なり摩耶、武蔵、葛城の三艦は当港を出発して直に千島遭難地に向ひたりとあり右に付海軍大臣は宮中に伺候して事の次第を上奏したり。海軍大臣の官邸には伊東次官、山本大佐、村上書記官を初しめ相会して協議せり。千島は去月二十八日神戸へ向け出発したるものにして我か新造の軍艦なり>(明治25年12月1日)
日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島(750トン)が仏国ロワール造船所で竣工し日本に回航、長崎港を経由して神戸港に向かう途中、愛媛県和気郡沖の瀬戸内海で、イギリスのP&O所有のラヴェンナ号と衝突し「千島」は沈没、乗組員74名が殉職します。
ラヴェンナ号も損傷を受けますが軽微なものでした。
当時の日本はいまだ不平等条約下にあり、
安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されていました。
イギリス商船に関する裁判は横浜のイギリス領事裁判所で第一審が開かれます。
●1審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利
双方とも不服を抱いて上級審にあたる上海のイギリス高等裁判所に控訴。
●2審ではP&Oの全面勝訴
この判決をめぐって 国内・国会が紛糾。
政府は2度にわたって衆議院解散を断行
英国本国の枢密院に上告を決めます。
●1895年(明治28年)7月3日
英国枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約12万円の負担を命じます。
●1895年(明治28年)9月19日
日本政府とP&Oの間で和解が成立します。
※P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一切の請求権を放棄。
「もののふの河豚にくはるる悲しさよ」
正岡子規は1892年(明治25年)12月2日の新聞「日本」に、俳句時評「海の藻屑」と題し、千島艦沈没を句で評しました。
二審で千島艦事件日本敗訴がきっかけとなり「対外硬派」が誕生し
「内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責」を主張、政党も同調し、日清政争への序曲となっていきます。
(岡村輝彦)
この千島艦事件を日本代表の弁護士として英国と法廷で戦ったのが岡村輝彦です。
彼は後に中央大学第3代学長(英吉利法律学校から数えると4人目)となり日本の民法典整備に重要な役割を果たした法律家です。
岡村輝彦なる人物、横浜少し関係がありますので紹介しておきます。
学生時代の岡村の性格は豪放不罵、ナポレオンを崇拝し、また北海道開拓に関心を抱き、同級生から「岡村ナポレオン」「岡村北海」などと呼ばれたそうです。
成績不良のため1875年(明治8年)の第1回国費留学生の選に外れますが、なんとか第二回で渡英、ロンドンのキングス・カレッジからミドル・テンプルに進み、アトキンスの弁護士事務所でも実務経験を積みます。
留学中に一時、勉強のし過ぎでノイローゼになりますが、日本から留学した中で5人目のバリスター(英:barrister)となります。バリスターとは法廷弁護士(ほうていべんごし)のことで、当時法廷で弁論、証拠調べ等を行うことができる弁護士として事務弁護士(ソリシター、solicitor)とは別に分業が行われていました。
日本に戻り、行動派の法律家として裁判所判事、弁護士を歴任します。
1885年(明治18年)8月横浜始審裁判所長
この頃から、東京大学・東京法学院・明治法律学校で講義を担当します。
1891年(明治24年)2月に官職を辞し、代言人=弁護士となり東京・横浜の2か所に事務所を開業します。
開業した翌年、この「千島艦事件」に遭遇します。
日本人として初めて横浜の英国裁判所に出廷し見事な法廷交渉を展開し勝訴判決を得ます。ところが、上告時は司法省御雇外国人カークウッド
が担当し上海の上等裁判所での控訴審は日本側が敗訴します。
その後、国内で紛糾した後、ロンドンの英国枢密院における上告審の訴訟代理人を依頼され渡英、勝訴判決を得て凱旋帰国します。
※この裁判にかかった経費は 最終的に日本が得た和解金を上回ってしまいましたが、政治的勝利は日本国の重要な成果でした。
1913年(大正2年)3月から翌3年6月まで中央大学の学長を務めました。
ベトナム戦争を撮影した報道写真家「岡村昭彦」は岡村輝彦の孫です。
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/library/okamura_bunko/
●1914年(大正3年)の今日
横浜市電、大岡川線の一部「お三の宮」〜「弘明寺間」が開通しました。