今日は「時」の話題から始めます。
古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。
定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。
フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなった可能性が高かったでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。
1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より
【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。
20211205更新 誤字修正 画像とリンクを追加