図書館設置問題と水源林買収

今日は横浜資料からたまたま出会った史実を紹介します。
(掃部山公園)
横浜市史5巻目第二章「第一次世界大戦下の市政」第二節に
「図書館設置問題と水源林買収」という項目が書かれています。
読んでも2ページ程度なので全て引用しても良いのですが、前振りも含めて少し編集してみました。
第二節のタイトルは「遅々たる公共施設の整備」
ここでは横浜史の中で明治末期から大正初期について触れています。
横浜は開港50周年の記念行事も行い交易も盛んな大都市になった割にインフラを含め公共設備がなっとらん!と市議会で問題提起されます。

大正3年には「開港記念横浜会館」の建設が始まります。

当時
「一つの公会堂なく一つの図書館なし」と揶揄された横浜市は、まあ経済優先だったのでしょう。港湾施設は国のお金で大きく整備されてきましたが、市内を見回すと<ろくなものがない>という状態、文化施設不毛の町でした。様々な文化施設の計画が無かったわけではありません。市議会での議論がまとまらなかったのです。
例えば「商品陳列館」(現在のコンベンション・トレードセンター?)の建設計画も紛糾し先送りとなります。<市会>は明治以来<商人派><地主派>の系譜が二大勢力となって対立状況がありました。
同じく市民力のバロメータである「図書館」建設も明治期からの懸案事項でした。
ライバル神戸市は明治44年に規模は小さいですが本の閲覧を始めていました。その後、本格的な図書館が大正10年に開設されます。横浜市立図書館、そして大阪市立図書館も、大正10年に<横浜公園仮設閲覧所>が開設されます。
といっても戦後制定された<図書館法>による公共図書館の体裁はあまり整っておらず、本格的な開館は戦後を待ちます。
大正10年に図書館が開館した背景には「公立図書館職員令(同年勅令336号)」があるのかもしれません。
この辺詳しくないので勅令のタイミングだけ記しておきます。

※水源林確保のテーマは 横浜水道史のキモ!なので別立てで紹介します。

大正3年に彦根の井伊家から「掃部山」一帯4,233坪を横浜市に寄付するという申し入れが“正式に”あります。この広大なしかも整備された公園空間を無償で提供した背景は、聞くも涙、語るも涙の井伊家と支援者の努力があったのですが背景は別段で。
この公園、
寄付には条件がついていました。
●未来永劫 公園として使用しすること
●井伊直弼像はそのままにしておくこと※
※これが井伊家の<本望><photo id=”7″ />
●公園にはその他の建造物、井伊像とは関係のない記念物を建てない!
そして ここが肝心、
◎市が開港記念のために図書館を建設することは許す。
しかも 井伊家から2万円を補助するというものでした。
この申し入れをチャンスに図書館を建設しようという考えもだされます。ただ、この井伊掃部頭像を巡っては <開港50年式典>で政界を巻き込んで一悶着があった公園ですから、その後もスムースに掃部山に図書館ができるわけもなく、
横浜市は候補地を北仲にあった宮内省御用地払下げを目論みますが、条件が折り合わず計画は頓挫します。
結局大正10年になって横浜公園の仮設閲覧所を経て、昭和2年にようやく現在の中央図書館が開設されるに至ったのです。

一方、現在の<神奈川県立図書館>は戦後になり<サンフランシスコ講和条約>の記念事業として紅葉丘、掃部山公園に隣接する場所に設置されます。この時の知事は内山岩太郎という“豪腕知事”でした。

井伊家のメッセージに寄り添ったのか判りませんが、マッカーサーがペリーを意識した<講和条約>の記念事業に掃部山脇の図書館というのも歴史の皮肉といえるでしょう。

(大横浜)
横浜に様々な施設が登場するのは昭和に入ってからです。
残念ながら関東大震災後の復興事業によって横浜商工奨励館や横浜中央電話局、本町旭ビル、横浜地方裁判所の他都市中心部の威容は整います。

文化施設も、公園が整備されたのも関東大震災後の復興事業でした。

山下公園、野毛山公園もこの時期に整備されます。
実は 関東大震災後の復興計画で 横浜市の中心部を戸部に置く計画もありました。
市域を拡大し、市としても拡大していく上で、中心をどこに置くか?
今回市役所の移転で、少し市の軸がまた北に移動しますね。
ちょっと暴言になりますが、横浜の原点は<野毛・吉田橋>にあるんじゃないか?
と時々思うようになりました。<photo id=”3″ />

この辺に関しては 改めて。
最近横浜もビアガーデンが復活しているらしいので 飲みに行きますか!!

(過去の7月29日ブログ)
No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=396
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。
これに伴い
1991年(平成3年)7月29日

「市営バス141系統<横浜駅前〜パシフィコ横浜〜桜木町駅前間>運転開始(横浜市営交通八十年史)」します。