横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーとミリオンダラー。
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。
【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分
バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。 このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。
さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。
「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」
ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。 恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。