No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

1929年(昭和4年)10月21日(月)の今日、
市内を「エジソン電燈発明50年祭記念」の花電車2両が運転されました。

戦後の開港百年祭に出された花電車

関東大震災復興事業により、
日本大通りの拡幅や山下公園の造成、 
横浜三塔に数えられる神奈川県庁舎(キングの塔)や横浜税関庁舎(クイーンの塔)の 建設などが行われ、ほぼ回復した横浜市は1929年(昭和4年)に震災復興を祝う盛大な式典を行いました。
この復興記念の流れで様々なイベントが通年で実施されましたが、
「エジソン電燈発明50年祭記念」(横浜市電気局)の花電車もその一つでした。
※横浜市電気局は現在の横浜市交通局

(横浜 エジソン?)
横浜とエジソンの関係をややこじつける前に、
意外と知られていないエジソンのエピソードから始めます。

トーマス・アルバ・エジソン(1847年2月11日〜 1931年10月18日)によって
実用化に成功した「電球」の素材が
一時期、日本の竹だったという話しは有名です。
エジソンは10万ドルの費用を費やし20人の調査員を世界中に派遣し竹を収集します。

エジソンは日本政府に竹林を照会し、
京都岩清水八幡宮の竹に出会います。

それぞれのサンプルを実験した結果、
京都の岩清水八幡宮の竹林にあるマダケ
「電球」のフィラメントに選びます。岩清水のマダケは1200時間という驚異的な発光時間を達成します。
この発見によって日本の「マダケ」は長時間発光素材として世界にその名を知られ、
エジソンの名を不動のものにします。

岩清水八幡宮にはエジソン記念碑があり
毎年2月11日エジソン生誕祭が行われます。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0


現在も若干誤認があるようですが、
エジソンは電球の発明者ではありません。
1879年2月イギリスのスワンが炭素繊条を使った白熱電球を発明しましたが寿命が短すぎ実用には向きませんでした。
世界の技術者達が「フィラメント」の素材開発に奔走します。
このフィラメント競争に勝利したのが、発明王トーマス・アルバ・エジソンです。

1879年(明治22年)10月21日エジソン32才のとき、
木綿糸に煤とタールを混ぜ合せたエジソンモデルを開発します。
40時間ほどしか寿命がありませんでしたが、エジソンにとって初の改良型を完成させた
10月21日がエジソン電燈発明記念日の起源となっています。
エジソンはすぐに特許を出願し、12月31日公開実験で40時間の点灯に成功し
 1880年(明治13年)1月27日に特許(U.S. Pat. 223,898)を取得します。
その後、岩清水の「竹フィラメント」時代となり
まもなくタングステンの時代となり
20世紀に入り電球全盛期を迎えますが、
蛍光管を経て現在はLEDへの転換期を迎えています。

発明王エジソン
 1868年:電気投票記録機 
 1869年:株式相場表示機4万ドル
  (現在の日本円だと約2億円相当)で権利譲渡
 1877年:電話機・蓄音機
 1879年:電球
 1880年:発電機
 1888年:改良型蓄音機
 1891年:のぞき眼鏡式映写機キネトスコープ
 1897年:改良映写機ヴァイタスコープ
 1910年:トースター

(日本総代理店)
エジソンの発明品はいち早く日本市場に登場します。
その代理店となったのが横浜の「フレーザー商会」です。
電球は勿論、蓄音機の宣伝販売に努めました。
このフレーザー商会の紹介で、
1886年(明治19年)単身でエジソンに弟子入りした日本人がいました。
岩垂 邦彦です。

※岩垂 邦彦
(安政4年8月15日(1857年10月2日)〜 昭和16年(1941年)12月20日)
岩垂は「エジソンを唸らせた男」といわれた程、エジソンの信頼を得ます。
エジソンの下で電気工業に関する技術を磨いた岩垂 邦彦は、
帰国後電力会社の設立に関わります。
自身は1894年(明治27年)岩垂電気商店を設立しゼネラル・エレクトリック(GE)の総代理店となり、その後ウェスタン・エレクトロニック社のパートナー会社を経て
1899年(明治32年)7月17日に日本電気株式会社(現NEC)を設立します。

もう一人、エジソン研究所に学び日本の電機業界をリードする
大企業を築いた人物が輩出します。

※藤岡市助
(安政4年3月14日(1857年4月8日)〜 大正7年(1918年)3月5日)
日本電気を築いた岩垂と同じ年に生まれた藤岡市助は、工部大学校を首席で卒業し助手に就任、芝浦製作所(現在の東芝の強電部門)創業者の田中久重に出会い将来二人が急接近するキッカケになります。
藤岡は米国に渡り、エジソンに触発され帰国後電気器具の製造をめざします。
1890年、三吉正一と共同で白熱舎(後の東京電気)を創設。
1905年にはゼネラルエレクトリック社との提携を図り1911年タングステン電球「マツダランプ」を製造発売に成功します。


http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4699/tubes_lamps.html
その後、東京電気が芝浦製作所と統合し「東京芝浦電機、東芝」となり現在に至ります。

(最後に珍説)
これは私の推論ですが、明治から大正期に高級ホテルとして輝いたThe Grand Hotel Yokohamaの支配人ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)が「アドニス」を横浜流にアレンジしたカクテル「バンブー」の命名に、当時すでに日本産の竹を使ったフィラメントが有名になっていましたから、ニッポンバンブーの名を使ったか、意識したことは間違いないのではと<確信>しているところです。


No.47 2月16日 (木)ヨコハマグランドホテル解散

横浜オリジナル<ミリオンダラー>

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください