【芋づる横浜】輿地誌略から続く物語(1)

今回は特に横浜に関係がない前回から芋づる式に繋がってしまったテーマです。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8567
【芋づる横浜】輿地誌略(後編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8575
このブログで明治初期の大ベストセラー「輿地誌略」を紹介しました。
著者は「内田恒次郎」明治以降は「内田正雄」と改名します。内田恒次郎
幕末に徳川政権のもと、軍用艦を発注しその受取というミッションでオランダに滞在(留学)し、「開陽丸」という艦船を日本に運んできた時のリーダーです。
彼がオランダに滞在していた1863年(文久3年)4月から1866年(慶応2年)10月までの二年半を追っていくと「横浜鎖港談判使節団」の一行の中から<私にとっては>意外な人物との接点があり驚きました。
今日はこの<出会い>を紹介しましょう。
1859年(安政六年)に開港した日本ですが、その後の国内事情はモメにモメます。
最大の事件が「桜田門外の変」です。
時の大老が<浪人>に暗殺されるという事態が起こります。その後、日本全国で「尊王攘夷」の嵐がふきあれます。この流れに沿ったのかどうかは判りませんが時の孝明天皇が1863年(文久三年)に攘夷の命を下します。これが勅命に基づく外国人排除の政治運動「奉勅攘夷」です。5月には下関海峡で長州藩がフライングして外国船を砲撃し、7月には薩英戦争が勃発します。ところがこの<攘夷闘争>も圧倒的な欧州英仏軍の前に惨敗します。外交上は国交を開いているにも関わらず戦争を仕掛けた訳ですから、欧米列強はこれを手がかりに圧力をかけてきます。
特に長州が仕掛けた<下関事件>のツケは結局幕府が負うことになりました。
これが明治になって米国から賠償金が返還され<横浜築港予算>となったのは有名ですね。
外交的にも経済的にも苦境に追いこまれれていた幕府は「奉勅攘夷」の下、
交渉によって<開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉>を行うために、外国奉行池田筑後守長発を正使とする使節団を組みます。
1864年2月6日(文久三年十二月二十九日)
池田使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗船しフランスに向かいます。
結果は大失敗、糸口すらつかめず帰国し、幕府から処罰されてしまいます。
この一行の中に
蕃書取調出役教授手伝として同乗していた原田吾一(原田 一道)という人物がいました。原田
wikipediaから
「原田 一道(はらだ いちどう / かづみち)
文政13年8月21日(1830年10月7日)〜明治43年(1910年)12月8日)は、江戸幕府旗本、幕末・明治期の兵学者、日本陸軍軍人。陸軍少将正二位勲一等男爵。」
(中略)「文久3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随いて渡欧。兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学ぶ。慶応3年(1867年)に帰朝。」とあります。
これには2点誤記があります。
使節団帰朝後も欧州に滞留して」ではなく
正しくは使節団が帰朝する際の5月にパリで使節団と別れ、彼はオランダのハーグに内田恒次郎を訪ねオランダの陸軍士官学校に留学し兵学を学びます。<池田家文書>
もう一点、原田 一道が帰国したのは慶応二年一月十三日(1866年2月27日)でした。<原田先生記念帖>
明治維新後は兵学のキャリアを活かして陸軍教官となります。
外国留学と語学を買われて岩倉遣欧使節団の幹部「陸軍少将・山田顕義理事官」の随行員として渡欧します。岩倉使節団横浜出発
帰国後は、
陸軍省砲兵局長、東京砲兵工廠長、砲兵工廠提理、砲兵会議議長等を歴任し貴族院議員となり1910年(明治43年)12月に81歳で亡くなります。
この「原田 一道」には二人の息子がいました。

長男 原田豊吉は地質学者となります。
そして次男 直次郎は 「日本近代洋画の礎を築いた男」と呼ばれた洋画家となります。

原田直次郎人物写真
原田直次郎

彼と生涯の親友となった人物がいます。
その名は森鴎外(林太郎)。

原田直次郎は
日本国内で高橋由一の下で絵を学びますが留学していた兄の影響もあり留学を決意します。
兄豊吉は地質学を学ぶためにドイツに留学しオーストリアの地質研究所に所属した後に聞き国し弟の留学先を探します。豊吉が留学の際に友人となった歴史画の巨匠ガブリエル・フォン・マックスを紹介し直次郎はドイツ留学を決めます。
1884年(明治十七年)2月に横浜港からメンザーレ号に乗船し出国します。
直次郎21歳でした。
同じ船には欧州兵制視察団として大山巌、川上操六、桂太郎らが乗船していました。恐らく、当時陸軍少将だった父 原田 一道の<はからい>もあったのではないでしょうか。
この年の8月24日に同じくメンザーレ号に乗船し横浜港を旅立った若き陸軍軍人が森林太郎、当時22歳でした。
二人は二年後の
1886年(明治十九年)3月ドイツで出会います。
これが二人にとって運命の出会いとなります。鴎外の「独逸日記」には
「二十五日。畫工原田直次郎を其藝術學校街Akademimiestrasseの居に訪ふ。直次郎は原田少将の子なり。油畫を善くす。」
出会いは さらっとした感じだったと想像できます。
「日本近代洋画の礎を築いた男」原田直次郎は
1863年10月12日(文久三年八月三十日)〜1899年(明治三十二年)12月26日
36歳の若さで亡くなります。
森林太郎、文豪森鴎外の作品「うたかたの記」のモデルとなったのが原田直次郎です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
奇しくも鴎外の下宿の隣人がガブリエル・フォン・マックスでした。(つづく)