今日は掃部山の話です。
掃部山は(かもんやま)と読みます。初めて出会う方には難読地名の一つです。
まず読めません。どう読んでもそうぶやまですよね。
ここは明治期に鉄道省の土地で、後に民間の管理を経て市の公園となりました。
桜の名所としても有名です。この掃部山の名は幕末の歴史を大きく変えた井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の「掃部」から採ったものです。ここには現在、井伊直弼の銅像が建ち、一角には関東最古の能楽堂が移築されています。
衣冠束帯をつけて正装した男の像が何故ここに建っているのでしょうか?
「開国の恩人」としてすんなり顕彰されたからではありません。現在掃部山に建つ「井伊直弼像」は二代目で戦後に復活したものです。
井伊直弼、日本近代史を学ぶ時必ず登場する彦根藩主であり時の大老は、その評価が未だ大きく分かれます。
彼をテーマにしたブログも幾つか書きました。
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=414
No.■180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521
ここで改めて 掃部山に建つ「井伊直弼像」を通して、横浜を舞台にした歴史の謎について少し紹介しましょう。
■1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定しました。(横浜近代史総合年表)」
とあるように、井伊直弼の顕彰碑を建てようという活動は明治10年代から彼の故郷「彦根」から起こります。
明治維新後の日本国内における井伊直弼の評価は、散々なものでした。
井伊大老が指示した「安政の大獄」により弾圧された各藩の要人・知識人の多くが新政府の幹部となったからです。幕末明治に活躍した明治維新の要人は薩長土肥と呼ばれた倒幕派の若き<革命家>達も含まれていました。
実は<日本の近代化>を最初に支えた官僚の多くは旧徳川幕府の優秀な幕臣達でした。
倒幕派の若き<革命家>達は清濁合わせながら、露骨な藩閥政治も行い、都合の良い朝令暮改も繰り返しながら近代国家づくりに奔走したのです。
その明治政府をけん引するリーダー(革命家)達にとって井伊直弼は<大獄>の恨みある憎き江戸政治の象徴となっていきます。一方、藩閥政治に不満を持つ人達には 開港を英断した井伊直弼をヒーローとして再評価する動きが活発化します。
明治政府内部でも様々な派閥争いが起こります。
新政府最大の危機が「明治十年の西南戦争」という近代最大で最後の内乱が起こります。
その後大隈重信を巡って「明治十四年の政変」が起こり、福沢諭吉を含め啓蒙派の言論人が政治の場から去っていきます。
官僚機構を整備する中、省庁間の利権争いも重なり、明治国家が少しずつ歪な権力構造のまま膨らみ此の歪みが日本の政治を停滞させていきます。
横浜を例に取れば、横浜港築港計画ではイギリスをバックにした「大蔵省」とオランダを支持する「内務省」の軋轢があったように、井伊直弼を巡る顕彰碑建立では「内務省」と反内務省との対立も鮮明になります。
ここに掃部山の井伊直弼像のたどった運命を少し長くなりますが年表にしておきます。
(井伊直弼碑から像へ)
■1860年(安政7年)3月24日
三月三日桜田門外の変
■1881年(明治14年)11月
有志 井伊直弼像、在東京建碑委員を選定
■1882年(明治15年)7月
建碑位置、横浜戸部不動山案を提案したが否決、東京案となる。
同年10月
上野東照宮境内案 申請。11月に内務省内否決、不許可に。
■1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地の払下げを願い出る。
■1884年(明治17年)1月
地所開墾に着手。
同年3月22日
東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定
■1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われる(26日〜28日)
■1888年(明治21年)3月20日
島田三郎<開国始末>(付録 井伊掃部頭直弼伝)
■1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」発足
■1893年(明治26年)
旧臣の集まりが「旧談会」を発足
同年8月
神奈川県知事 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、井上馨大臣拒否。
■1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」が内務省(西郷従道)から却下
■1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定。設計に着手。
■1909年(明治42年)6月
銅像竣工。開講五十周年式典挙行。
同年7月1日
神奈川県知事、横浜市に銅像除幕式中止を申し入れ、中止延期。
同年7月11日
除幕式強行。大隈重信、英国総領事ら出席他600人。
■1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
■1914年(大正3年)11月7日
横浜の掃部山公園として開園。
※土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)
■1916年(大正5年)7月
「井伊直弼朝臣頌徳会」発足
同年11月
「井伊直弼朝臣頌徳会」「旧談会」が「無根水会(むねみ)」となる。
※無根水は直弼の茶号。
■1917年(大正6年)
大正天皇、彦根行幸の際 直弼像には訪れず。
■1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
■1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」が未遂。
※横浜の右翼団体
■1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
■1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
■1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 竣工。
同年6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
■1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
■1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
■1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
■2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備